山の頂きに聳える神殿
静寂に佇むその神殿を、月が心細気に照らしている。月明かりに浮かび上がった年歴を感じさせる石造りの神殿は遺跡の様に謎めいていて、何処か空気が違った。
ーーー青年は気が付くと其処に居たのだ。
突然、まるで世界を挿げ替えられたかのように。
本当に突然の事であった。
青年は呆然として辺りを凝視する。己が置かれているらしい神殿は酷く簡素で、天井を支える支柱が疎らに並立している他には何も無い。強いて言えば、在るのは広い空間の奥に、青年が居る暗がりより前に墓の様に質素に作られた祭壇のみだ。その寂し気な祭壇の前には、一人の少女、そして平伏す大勢の人々が居た。まるで呪式か降霊をしているかのような怪し気な様子に、青年は思わず息を潜めて其方を窺った。祭壇の上には、大きな水の溜まりが弱々しく揺らめきながら浮かんでいる。青年は己の目を疑った。
(これは夢か?)
漠然と湧き上がる疑問とは裏腹に、青年の視界に映るどれもこれもが現実感を伴い、夢とは思えぬ程の生々しい質感を放っていた。だが、夢で無い筈が無いのだ。何故なら青年が先程まで居た場所は、機械文明が発達した現在の日本であったのだから。
そしてまさに丁度、母に会う為に病院の自動ドアを潜った時であったのだ。ドアの向こう側に足を一歩着いた瞬間、言葉通り、不自然な境目無く気が付くと此処にいたのだ。気を失った覚えはない。身体に不調があるわけでもない。まして建物の倒壊や急な地震に巻き込まれた覚えもない。ならば此処は何処だ、どうして日本に、いや、己が生きてきた場所に見た事も無いこんな幻想めいた場所があるのだと、青年は混乱した。
(夢で無い筈が無い)
青年は頭が破裂しそうに暴れる思考を無理矢理落ち着かせた。そうだ、夢であろう。ここ何ヶ月もまともに睡眠もとらずに、昼夜無く働き詰めのうえ母の看病をしていた無理が祟ったのだと、青年は漠然と感じた。だからこんな現実離れした場所に来てしまう夢を見ているに違い無い。夢ならばすぐ醒めるだろうと、青年は改めて広間の様子を窺った。祭壇の前に立つ少女は、時折、黒に近い藍色の長髪と同じ藍色の瞳を瞬いていた。やがて、静まり返った神殿の中、少女は両腕を浮かんだ水の溜まりの前へと差し出し、小さく謎めいた言葉を紡ぎ出す。それを平伏すように見守り続ける人々の眼は必死である。
どのくらいそうしていたのだろうか。
そろそろ神殿から遠く見える山の端が明らみ始めた頃、変わらぬ静寂のまま朝日を浴びようとしていた神殿の中に淡い光が揺らめいた。祭壇に浮かぶ水の溜まりが、少女の言葉に応える様に鈍く光り出し、次第に水は小さく大きく波立ち始めたのだ。固唾を飲んで見守る人々。次第に激しく波立ちながら暴れ始めた水の溜まりは、一際眩い光を放ち出し、神殿全体を真っ白な光に包み込んだ。次第に薄れてゆく光。人々は眩しさに閉じた眼を恐る恐る開けた。そこには、四方の床に飛び散った水が鈍い光を放ったまま輝いているのみであった。
「…ああ…なんと言うことだ!また…また駄目だった…!何度繰り返しても駄目ではないか!もはや夜が明けるぞ…」
誰からとも無く落胆の声が漏れた。
それに堰を切ったように次々とあがる悲痛な呟き。
「…もう…もう我々には滅びる道しか残されていないのか…」
「…何故…月の神は応えて下さらない…月の神は…我々を見放されたか…」
「やはりアルス様では、まだ力不足なのだ…」
「……無理も無い…我々は遠い昔…月の神を裏切ったのだから…」
「…ああ…ああ…」
背に聞こえる絶望の声に、祭壇の前に佇む少女は、顔色すら変えずに両腕を静かに下ろした。その顔は、人々とは打って変わって落ち着いている。さして結果など興味もなさそうに去りかけた時だった。少女は気付いたのだ。祭壇の奥に気配がある事に。
「誰?」
悲運に暮れる神殿に少女の声が響いた。青年は突然の呼びかけに一瞬身を堅めた。その声に水を打ったかのように鎮まり返る神殿。少女と人々の視線は一斉に祭壇の奥の暗がりへと集中した。青年は息を止めた。己の夢で己に問いかける者がいようとは思いもしなかった。
「出てきなさいよ」
今度は、はっきりと少女の声が此方に向いた。人々の視線も全て此方に向いている。青年は思わず暗がりの先に逃げ場を探したが、どうやら三方を壁に囲まれた行き止まりらしく、出口は少女と人々が居る広間に向かうしか無いようだ。鎮まり返った神殿に不気味な殺気が漂う。人々の手には長槍や刃物、剣のようなものが握られていた。それを構える金属音が彼方此方から反響した。
青年は気付いた。もしかすれば己は良くない状況下に置かれているのではないかという事に。なんと寝覚めの悪そうな夢であろうか。このまま此処に潜んでいれば、あと幾らもせぬうちに立ち込める殺気は青年に近付いてくるであろう。だからといって己から出ていっては、もしかすれば何かの密偵と間違えられて殺されるかもしれない。
どちらを選んでも青年に逃げ場は無い。
やがて意を決した青年は、祭壇の奥の暗闇から、“ コツリ、コツリ ”、と祭壇へ向かう。少女が暗闇に目を凝らすと、其処にはぼんやりと人影が浮かんで見えて来た。少女は更に耳を澄ました。
聞こえる。確かに足音が。
見える。確かに人影が。
やがて、一点を凝視したまま固まる少女の視線に気付いた人々も何かを察したのであろう、一斉に静まり返ると、少女の視線の先、祭壇の奥を見つめた。ゆっくり、ゆっくりと近付いて来る足音。暗闇から徐々に浮き出て来る間違う事無き人影に人々は希望の籠る眼を揺らして息を飲んだ。
そして、暗闇を纏った足音が静かな足取りで恐ろしい静寂漂う月明かりの下へと姿を表したその途端、人々の眼差しは一様に絶望へと変わった。天井から差し込む月明かりに照らし出されたのは、見た事もない青年だったのだ。
「………ち、違うではないか!」
その姿に人々は一様に絶望の顔を歪めた。
「…なんということだ…ッ!」
「…ああ!…やはり、やはり駄目だったではないか…!」
次々と上がる落胆の声に、祭壇の少女は眉根を寄せた。
「…見た目が違っても“ 黒光神 ”よ。見てご覧なさい」
「し、しかしアルス様、月の神――“ 黒光神 ”様は…伝承によれば、見目麗しき男性の姿をしていると言うではありませんか…」
それに誰かが重い口を開いた。
「…確かに、アルス様の言う通り、見覚えのない者とは言え“ 神乞いの儀式 ”で現れた者だ。…容貌も“ 言い伝え通り ”じゃないか…」
誰が呟いたのかは分からない。だが、その言葉に人々は一斉に顔を上げた。長い黒髪を無造作に後ろに結い、鋭く光る漆黒の眼。改めて見た青年の容貌は、確かに少女の言う通りの理に叶っている。
だが、違う事にも気付いた。
緩やかに巻いた布を仕立てて衣服にしている人々に対して、青年のそれは見るからに違う。身体の作りに沿って仕立てられている無駄の無い不思議な衣服。青年の出で立ちは、白いシャツと黒いジーンズに同じく黒く古びたトレンチコートを羽織った、人々とは違うと一目で分かる異質な出で立ちである。ざわめく神殿。人々の思いは不安定に揺れ、疑心暗鬼の眼差しで青年を凝視し始めた。それは、訝しむ思いと再び湧き出た何処か期待の籠る複雑な視線であった。
その刺す様な視線を受けながらも、削がれた殺気に気を緩めた青年は己が置かれている夢の中を改めて見渡した。
時代で言えば中世らしい雰囲気の神殿に、中世年代の衣服、現代の衣服を僅かに足したような格好の人々。手にした武器のようなものは長槍や剣のようではあるが、どれも実用性のありそうな造りの物ばかりだ。
まるでこの状況を解していない青年のその様子に気付いたのは、誰であったか。ふと、誰ともなしに叫んだ。
「…異界じゃ、“ ただの異界者 ”じゃ!」
青年は弾かれたように見開いた目を人々に向けた。途端、人々はその言葉に再び大きく騒ぎ出した。
「失敗だ!見ろ!あの者の摩訶不思議そうな眼を!」
「違う!この者は違う、黒きだけだ!!!」
「違う!違うではないかッ!」
一度芽生えた期待を裏切られ、人々は瞬く間に怒りで騒ぎ出した。その様子は今にも青年を襲い殺さんばかりだ。青年は再び湧き上がった殺気に後退った。油断していたのだ。思いの外逸れた殺気に。だが今度は違う。期待を裏切られた人々は目の前に其れらしく現れた青年を許す気などはない。人々は手にした武器を力の限り握りしめて近付いてきた。後ろには先程出て来た行き止まり。そこに獲物を追い込むように半円になりながら近付いてくる人々。青年は数え切れぬ殺気の塊に圧倒され、思わず縺れそうになる足で後退って行く。
(悪い夢だ)
徐々に追い込まれて行く背中に冷や汗が流れた。ついには足を絡ませて青年が後ろへ転んだのを待っていたかのように、その頭上に刃が風を切った。その刃を目に映しながら、悪夢の終わりを漠然と感じた青年の前に身を呈したのは藍色の少女であった。
ふいな少女の行動に虚を突かれた人々は動きを止めた。次第に静まって行く神殿を待ちながら、ゆっくりと少女は人々の顔を見渡し、
「…今すぐ滅びたいのなら私ごと切りなさい。でも、そんな事をしたら、どうなるか分かってる?」
少女は冷ややかな藍色の眼で人々を見渡した。人々は以前変わらぬ訝しがる視線を青年と、その少女へ交互に送りながら沈黙を続ける。月光の下に佇んだままの青年は、困惑して静かにその情景を見守るだけだ。やがて、誰かが静かに呟いた。
「…分かりました。では、近いうちに、必ず。絶対」
少女は小さく頷いて見せた。それを見て人々は声もなく立ち上がると、ポツリ、ポツリと、その場から足早に去って行く。そうして、やがて最後の一人が神殿から出て行くと、残されたのは少女と青年の二人だけとなった。
再び静寂を取り戻した神殿。青年は転んだままの状態で、只々呆然としていた。夢であるなら確かに悪夢と言えよう。現実ではあり得ぬ逃げ場の無い理不尽な狂気だ。そんな事も無いわけではあるまいが、このような大勢の狂気に襲い掛かられる事など、滅多にあるものではないのだから。
「 大丈夫?」
ふいに、少女が口を開いた。それに青年は未だに呆然としながら少女を垣間見た。倒れたままの青年の前へ腰を屈めながら少女は続けて、
「 驚かせちゃってごめんなさい、あなたにはこの状況が分からないでしょう?…でも心配いらないわ、すぐだもの」
少女は穏やかな、しかし何処か冷たく繕った微笑を浮かべながら青年へと手を差し出した。それに青年は何か不吉な予兆を感じ、握られそうになった手を振り払った。少女は青年を見つめたまま、弾かれた手を冷えた微笑で撫でた。その目は笑ってなどいない。まだ気を許してはいけないと青年の直感が言っている。だが二人だけになって幾分か己を持ち直したのであろう、青年は全てが意味の分からぬ悪夢に、湧き上がる疑問を吐き出した。
「…ここは何処なんだ?なんなんだおまえ達は?…“ すぐ ” って、なんのことだ?」
「 此処は寒いでしょう?風邪を引くわ、さぁ」
青年の問いが聞こえていないのか、少女は依然薄っすらと微笑んだまま、再び手を差し出した。不気味ーーーその言葉が青年の頭を支配した。言葉は通じているであろうに、話が出来ぬ、いや、話などする気の無い貼り付けた笑みに、青年の直感が気を付けろと呻き続けた。青年は強張った足で再び後退ったが、数歩と行かぬうちに少女に手を掴まれ止められたかと思うや、強引に引っ張られた。
「 行きましょう」
少女は掴んだ手を逃がさぬように更に強く掴み直す。人間の手を握るとは思えぬ乱暴な力に青年は顔を苦痛に歪めた。夢である筈なのに生々し過ぎる痛みが走った。
「貴方は大切なお客人よ、歓迎するわ」
行動とは裏腹に不気味な微笑がほくそ笑む。
青年は再び掴まれた手を振り払おうとしたが、握られた手が骨まで締め付けられて鈍い音を立てると、その激痛に思わず力を緩めた。まるで人間にでは無く、万力で締め付けられたかのような力。これが少女の力であろうか、また逃げようとしたなら今度は本当に握り潰されると思い、青年は身体を硬直させた。それに眉ひとつ動かさず、少女はその手を強引に引っ張りながら神殿の外へと足を進ませた。
不気味に風が鳴く闇の下へと。