「…ウ…ョウ、ショウ!」
宵は少女の呼び声で目を覚ました。突然跳ね起きた宵に少女ーーーアルスは驚きに目を丸くした。
宵は部屋の中に眩しく溢れる光に目を細めながら部屋の中を見渡した。隅々まで掃除の行き届いた床、古めかしい木の扉の側には同じく木製の箪笥と飾り棚があり、その対の広く開け放たれた窓がある壁際には小さな木の机と椅子、更にその横向かいに宵が身を起こしている年季の入った木のベッドがあった。敷かれている布団もシーツも埃は勿論、染み一つ無い。
「随分魘されてたみたいだけど…悪い夢でも見たの?」
アルスが心配そうな面持ちで宵の顏を覗き込んだ。宵は呆然としたままアルスを見た。
「ショウ、あれから十日も眠ってたのよ。私、もしショウが目を覚まさなかったらどうしようって心配で…」
心底から安堵の顏を綻ばせるアルスに、宵は不気味さを露わにすると直ぐ様逃げ出すように布団を剥いで窓へと背をぶつけた。
アルスは目を瞬いた。
「ど、どうしたの?ショウ?」
伸ばされた手を宵は振り払った。弾かれた手を悲しげに一瞥してからアルスは再び伸ばした手で宵の左手を握った。冷たく汗ばむ左手がびくりと震えた。アルスは優しく微笑んだ。
「まだ記憶が混乱してるのね。無理も無いわ、だって神殿の祈り台から落ちたんですもの」
宵は突然の話に目を白くして混乱した。何を言い出すのだと思った。宵には何処からか落ちた覚えなど無かった。何より少女のこの変わりようは何であろうか、そう言えば握られた左手にも体の何処にも痛みが無いと目まぐるしく駆け巡る思考に宵は動揺した。
「目が覚めたのかね、ショウ」
知らぬ声に宵は弾かれたように扉を見た。四十程の歳の中年の男が穏やかな微笑を浮かべて開けられた扉の傍に居た。中年は短く整えた藍色の髪に円柱の黒帽子を被り、同じく黒い神父服のような衣服を身に纏っている。
ゆっくりとした足取りで中年の男はアルスの側まで歩いて来くると宵へと微笑を綻ばせた。
「活発なのも結構だが程々にしておかないとな。今回は何事も無くて良かったものだが…」
「お父様!今日は小言は止めて!ショウがようやく起きたっていうのに!」
アルスの窘めに父と呼ばれた中年は参ったように笑った。
「そうだったそうだった、だがショウ君、幾ら君がアルスの幼馴染だと言っても次もしもまた娘に心配をかけさせるような事をしたら許さんからな?」
中年は親しげに笑み崩して拳骨を振り下ろす真似をした。頭から湯気を出さんばかりに怒るアルスをさらりと受け流しながら、中年ーーーアルスの父らしき男は楽し気に笑い声を上げて部屋を出て行った。
宵は呆然としたまま窓に張り付いていた。何もかもが分からなかった。夢で死を迎えた筈の体は何ともなく、宵を牢の如き部屋へ閉じ込め冷たく笑んでいた少女は陰り無く心の表情を出している。少女の父は剰え宵がこの少女と幼馴染だと言っていた事も理解出来なかった。見るからに宵と少女では一回りは歳が違う。
(夢?違う夢?終わってない?)
そんな考えばかりが宵の頭を駆け巡った。覚めない夢は無いと誰が言ったのか、何度目覚めても夢の中である事に既に宵の精神は限界であった。
「どうして覚めないんだ…」
宵は頭を掻き毟った。ぽかんと口を開けたアルスは少しの間の後、笑い声を上げた。
「やだ、ショウったら!目なら覚めたじゃない!夢の中だと思ってるの?寝呆けちゃって!」
宵はさも可笑しそうに腹を抱える少女を凝視した。アルスは笑いを抑えながらベッドに這い乗ると宵の足へと指を伸ばして抓り上げた。思い掛けぬ痛みに宵は思わず顔を歪めた。少女は微笑みを傾けた。
「ね?夢じゃないでしょ?」
宵は困惑に言葉を詰まらせた。確かに痛い。だが夢でない筈は無い、己の現実は此処では無いのだと思えど痛みが否定した。
(だったらさっき迄の夢も夢ではなかった?どれが?何処迄?)
湧き上がった疑問を頭を振って否定する宵に、アルスは困ったように溜め息を吐いた。
「随分悪い夢を見てたのね。まあ、そのうち落ち着くかな。ちょっと待っててね」
アルスは徐に立ち上がり部屋を後にした。残された宵の頭の中は混乱していた。何処から何処迄が夢で、逆にそうではないのか。痛みで考えるならば突然この夢を見始めた時からそうではなかったか。少女に握り潰されそうになった左手の痛みと不気味な仮面の男に蹴り潰された内臓の痛み、そして幾人もの悪意に叩きのめされた身体中の痛みを、宵は今でも鮮明に覚えていた。少女の言う通り夢ではなかったのならば、それも全て夢ではなかったと言う事かもしれない。
宵は夢で負傷した筈の左手を見た。痛みは勿論、腫れさえもない。夢でなかったのならば既に死んでいた筈だ。やはり夢だったとしか考えられないと宵は暴れる思考を押さえ込んだ。
(兎に角、逃げるべきか?)
宵は閉じられた扉を凝視した。
逃げるなら今しかない。張り付いたままの窓の外を見ると茂る緑に太陽の光がはち切れんばかりに降り注いでいた。辺りには誰も居ないようだ。音を立てぬように宵は静かに窓に手をかけた。
「いい天気よね、散歩でも行く?」
少女の声が背中に響いた。宵は一瞬身を震わせて慌てて意識を扉へと戻した。見ると、開いた扉の傍らに今にも落としてしまいそうに沢山の衣服を抱えたアルスが立っていた。
「洗い物日和だったから全部洗っちゃった。はい、これショウの服だったよね?」
アルスは抱えた衣服を側の飾り箪笥の上に置いて微笑んだ。宵は安堵した。捕まえに戻って来たのでは無いらしい。置かれた衣服と少女を交互に凝視する宵にアルスは首を傾げた。
「あれ?もしかしてショウのじゃないのも混ざってた?もしガーダのがあったらごめんね。昼食作ってる最中だったから急いじゃってて」
茶目気に笑うアルスに宵は眉根を寄せた。まるで己と親しげな様子に一変した少女と誰の物か分からない衣服の山。宵には覚えが無かった。学芸会でも着たことさえない中世的なそれを己の物だと言う少女に混乱しそうになった。
(何か企んでいるのか?)
目まぐるしく廻る思考の出した結論に宵は訝しむ眼差しを少女へ向けた。アルスは両手を腰に据えながら深々と溜め息を吐いた。
「なーに?あんまり睨まないでよね。この間ショウに借りた本無くしちゃった事なら謝ったじゃない」
宵は更に眉間の皺を深めた。返ってくる返事は何もかもが覚えが無いが親密な者同士のやりとりだ。この様子では別段どうしようと云う事は無いだろうと思い、宵は恐る恐る少女を警戒しながらベッドから降りた。
「おーい!準備出来たぞー!」
家の中に青年の声が反響した。アルスは扉から廊下に身を乗り出した。
「今行くねー!さ、行こうショウ!」
叫びながらアルスが手を差し出した。宵は思わず後退った。焦ったそうに引かれた手を捕まえたアルスは廊下へと歩き出した。掴まれた手に痛みは無い。優しく握られた手に宵は唖然として前を歩くアルスを見た。
(もしかして本当に違う夢なのか?)
漠然とした疑問が湧き上がった。先程までとは違う夢であり何かの標的になっていないのであれば、本当に違う夢であるのか宵は確かめたくて堪らなくなった。
「な、なあ」
「なに?お腹空いてるでしょ?十日も飲まず食わずで眠ってたんだから。話は食べながら食べながら!」
振り返ったアルスが微笑んだ。廊下を抜けて先の夢で宵が一度通された居間に出た。呼び声を上げた声の主が食卓らしきテーブルへと料理を運んでいた。赤髪に紅蓮の双眼の同じく先の夢でガーダと少女に呼ばれていた青年だ。テーブルには所々焦げた何かの肉や茹でた色とりどりの野菜のような物、林檎に良く似た赤い果物らしき物などが所狭しと並べられている。
其処に最後の一皿を並べ終え、ガーダは今まさに椅子に座ろうとしている所であった。引いた手を離してアルスも隣の席に着いた。椅子は丁度三つ用意されていた。空いた二人の向かいの一席が宵の席であろうが、早速と木匙を持った青年は埋まらぬ席を一瞥してから不機嫌に宵を睨んだ。
「何だよ、本当は今日はお前が当番だったんだからな。少し焦げたぐらい大目に見ろっつーの」
毒付いたガーダの頬をアルスが抓った。アルスは大袈裟に痛がる声を他所に立ち尽くしたままの宵に微笑んだ。
「さ、食べよ?冷めちゃうよ?」
宵はアルスとガーダ、テーブルに並べられた温かそうな湯気を出している料理を凝視した。今だ警戒が解けない宵の胸中には、料理に毒が入っているかもしれないと云う不安があった。無闇に促しにのっては何があるか分からない。
宵の腹が音を立てた。
気持ちとは裏腹に胃袋は正直であった。目を丸くしたガーダとアルスは申し合わせたように吹き出した。
「腹減り虫が泣いてんじゃねぇか!我慢して食った食った!」
ガーダは高々と笑い声を上げて手にした匙で宵へ座れと促した。一気に耳まで紅潮させた宵は二人を凝視しながらも恐る恐る席へと腰を下ろした。夢とは言え、考えてみれば此処何日も一切何も口にしていなかった事を思い出した。宵が席に着いた事を確認してから、ガーダとアルスは早速と料理に匙を付けては口へと運ぶ。特に青年は育ち盛りであるのだろう食べ振りは豪快と言うしか無い。軽々と己の皿を平らげて手付かずの宵の皿へと匙を伸ばした手をアルスに叩かれた。ガーダは “ 痛っ ” と漏らしながらも反対の手で狙った皿から肉を摘まんで口に放り込んだ。幸せそうに咀嚼する頬をアルスが抓った。
(考え過ぎか)
宵は胸中で安堵の息を吐いた。青年は宵の分らしき皿から盗った物を平然と食べた。毒は入っていないようだ。宵も匙を握ると焦げた肉を掬い上げて頬張った。味があった。不思議な夢だと宵は思った。牛肉と鯨肉を足して割ったような奇妙な味だった。確かに見た目通り少し焦げてはいるが不味くは無い。宵は無心で匙を進めた。大丈夫だと分かったら意識が一気に空腹だと騒ぎ立てた。
「ねぇ、ショウは私達の事忘れてないよね?」
黙々と料理を口に運ぶ宵にアルスが問い掛けた。宵は今まさに口に入れようとしていた匙を止めた。アルスは静かに匙を置いて不安気に宵を伺い見た。食後の茶のような物を啜っていたガーダも傾けた器を止めた。
「ショウが落ちた祈り台はね、“ 忘却の身投げ台 ” って呼ばれててね、病気の誰かを助ける代わりに自分の積み上げた記憶を神様に差し出す儀式をするとこなの」
アルスは泣き出してしまいそうに俯いた。部屋は静まり返った。宵は口を開けてアルスを見た。何処か気まずい雰囲気にガーダが慌ててアルスの肩を叩いた。
「だ、大丈夫だって!な、なあ、俺達の事も全部忘れて無いよな?」
宵には覚えが無かった。先程までの夢で会ったこの二人ならば知っているが、忘れて無いも何もそれ以外は何も知らない。第一夢の中とは言え何処かから落ちた記憶すらないのだ。"ぽかん"とした様子の宵にアルスは涙を滲ませた。ガーダも悲し気に顔を歪ませた。
「やっぱり何も覚えてないのね?ごめんね、私がガーダを助けたいなんて言ったから」
アルスは溢れて来た涙を拭いながら何度も宵に頭を下げた。嫌そうな色を顔に出したガーダは理解出来ぬ話に困惑する宵に視線を流した。
「犬の名前。止めろって言ったのに結局俺の名前付けてやがった」
宵は解した。つまりは病気か何かになったアルスの犬を助ける為に己が忘却の身投げ台と云う場所から自ら落ちて二人の記憶も何もかも失くしてしまった事になっているのだ。
(そういう夢なのか)
話の辻褄は合う。夢で目覚めてからの一連の遣り取りの背景がかち合った。妙に納得した宵はガーダを伺い見た。
「その犬は?」
「助からなかったよ。まあ、迷信だからな」
ガーダは苦笑しながら俯いたままのアルスの背中を摩った。
「こいつが助かっただけ良かったじゃねぇか、な?アルス?」
「…うん」
「でも無茶するよなぁ、お前。もしかしたら死んでたかもしれねぇのに。悪夢は大丈夫だったのかよ?」
ガーダは不安気に首を傾げた。宵は目を見開いた。悪夢、その言葉はまさに先程までの幾度と無い夢であった。だがどうして知っているのだろうか。宵の訝しむ眼差しにガーダは気付いた。
「これも迷信なんだけどよ、身投げ台から落ちた奴は自ら身を投げ出した不届者って事で神様が怒って悪夢を見せるって話なんだよ。懲らしめる為だって云われてるけど、実際はどうなんだろうな」
ガーダは肩を竦めた。それがまさに先程までの己に降りかかった天罰と言う筋書きかと宵は思った。
「なあ、本当に何も覚えてないのか?」
念を押すように覗き込んできたガーダに宵は口を噤んだ。覚えてはいる。先程までの夢の事も何もかも。だがこの夢に関しては覚えていないのではなく知らないのだ。伝えるべきか様子を見るべきか宵の思考は困惑していた。
ガーダは徐に立ち上がった。空になった己の皿と宵の皿を無造作に重ねて流しのような場所に運んだ。何処からか引かれた木の管から水が流れては鉄製らしき大きな窪みに溜まり、溢れた水は下水穴に流れていた。溜まりに皿を入れてガーダは宵の傍らに来ると手を掴んだ。
「何か思い出すかもしれねぇもんな、村を回ってみようぜ!」
「待ってよガーダ!私も行くわ!」
「アルスは洗い物係だろ!任せた!」
慌てて食卓を片付け始めたアルスを横目にガーダは宵の手を引いて外へ出た。背中に不満を叫ぶ声が聞こえた。ガーダは悪戯に笑いながら日の光が降り注ぐ緑の道を駆けて行く。宵は唖然として引かれるまま足を倣った。宵の記憶ではガーダに害を加えられた覚えはなく、まして屈託ない笑顔で駆ける青年は宵の気を緩めるのに申し分無かった。
ガーダは肩で息を切りながら足を止めた。緑茂る広がりの僅か上方に見覚えのある神殿があった。宵達が居た家から幾らもしない距離なのだった。宵は先の夢でアルスが巫女のような儀式を行っていたことを思い出した。巫女と神殿が密接した場所にある事に宵は妙に納得した。
「昔は良く此処で遊んだよな、思い出さないかよ?」
ガーダは宵に振り返ると両手を広げてみせた。宵は僅かな躊躇の後、窺うようにガーダを見た。
「なあ、聞きたい事があるんだが」
「なんだよ?改まって」
ガーダは首を傾げた。宵は出しかけた言葉を飲み込んだ。焦ったそうにガーダが宵の肩を叩いた。
「水臭ぇな、なんだよ?分かる事なら何でも答えるぜ?」
淀みない紅蓮の眼に宵は意を決した。
「此処は俺の夢なのか?」
ガーダは目を丸くした。吹き出して笑う声が青空に響いた。
「お前まだ寝ぼけてたのかよ!夢だったら走って疲れたり腹減ったりするわけねぇだろ?」
「で、でも、実は俺にはこの世界じゃない現実に生活があって…」
「なんだよ “ この世界じゃない現実 ” って?ここ以外の何処が現実だってんだよ?やっぱりまだ寝ぼけてんな」
「そうじゃない!」
張り上げられた声にガーダは一瞬身を竦めた。宵は席を切ったようにガーダに詰め寄った。
「俺にはこの夢の記憶は無いが、現実での今迄生きて来た記憶も思い出もあるんだ!早く起きないと行けないのに何時迄経っても目が覚めない…どうしたら良い?なあ、どうしたらこの夢は終わるんだ!?」
「お、おい、兎に角落ち着けよ!」
凄まじい剣幕で声を荒らげる宵にガーダは思わず後退った。宵は “ は ” としてガーダから離れた。ガーダは息を吐いた。
「余程ひでぇ悪夢だったんだな」
宵は俯いた。ガーダは憐れみに似た眼差しで宵の両肩を軽く叩いた。
「多分、お前が言ってるその “ 現実 ” ってのも全部悪夢だったんじゃねぇか?」
弾かれたように驚愕した顔を上げた宵にガーダは言い辛そうに頭を掻いて視線を逸らした。
「祈り台での “ 悪夢 ” ってのはな、伝承ではとてつもなく長いらしいんだよ。つまりさ、別な人生まるまる一つ分の長い長い悪夢だって事だ」
宵は必死に頭を横へ振った。
「ち、違う!そうじゃなくて!俺には産まれてからこれ迄生きてきた24年間の記憶も一日一日過ごした実感もあって…」
「“ それ ” が悪夢だったんだよ」
ガーダが遮った。宵の両肩を改めて静かに抑えて逸らした眼を宵へと合わせた。
「お前、今357歳なんだぞ?24歳って…まるで人間みたいじゃねぇか。そんなわけねぇんだよ」
「さん…」
「いいか?神様の罰だぞ?一日でニ、三年の人生を視せる事だってあり得るんだよ。しかも悪夢でしかないって事も」
「で、でも、確かに俺は…」
「じゃあ、どんな人生だった?」
ガーダが聞き辛そうに宵を窺い見た。宵は言葉を詰まらせた。先程迄の夢ならば確かに悪夢であったが、では青年が夢だと言う宵の現実はどうであったか。夢では無くとも、悪ではなかったとは宵は言えなかった。終わり無く見舞わられる不幸と纏わり付き続ける悪意が、宵の現実と云う名の記憶だった。
「…絶対救われず報われ無い絶望ばかりの人生」
小さく漏らされた声に宵は再び弾かれたようにガーダを見た。ガーダも再び目を逸らした。その眼は悲しみに沈んでいた。
「そんな悪夢の人生を視せる事が、命を投げ出そうなんてした愚か者への神様の罰なんだよ」
宵は愕然とガーダを見続けた。真っ直ぐと眼を向ける宵に気まずそうにガーダは俯いた。
( 悪夢だった?俺が俺の人生だと思っていたものこそが全て悪夢だったって?)
宵は一瞬、そうだったのだろうかと思いかけた己を必死に頭を振って否定した。夢であった筈が無いのだ。何と言われようが己が “ 彼方の世界 ” で生きてきた一分一秒の軌跡が瞼にしっかりと焼き付いているのだから夢である筈が無いのだと宵は思った。だが、それを証明するものは宵の記憶のみしか無かった。
ふいにガーダが抑えた宵の肩を叩いた。
「大丈夫だからな、もう大丈夫だから」
湧き上がる言い知れぬ不安に忙しく視点を揺らす宵にガーダが笑った。
「悪夢は忘れりゃいいし消えた記憶や思い出なんか、また一から創ればいいんだからよ」
宵はもはや何も言わなかった。いや、元気付けようとしてしてくれているガーダに何も言えなかったのだ。ガーダは徐に “ よーし!そうとなったら! ” と背伸びをすると神殿を指差した。
「何だか頭がすっきりしねぇ時は体を動かすのが一番てな!おい、あの神殿まで勝負だ!」
言い終わらぬうちにガーダは駆け出した。唖然とした宵もかなり遅れて慌てて赤髪の背中を追い掛けた。ガーダは速かった。訳も分からぬまま、しかし全速力で躍動している筈の宵は追い付くどころか見る間に離されて行く。
ようやく急な斜面を登り切り宵が神殿の側に辿り着いた時には、既にガーダは神殿の吹き抜けた広間に大の字に仰向けになっていた。
宵は肩で息を切りながらふらつく足でガーダの傍らに倒れこんだ。空気で器官が渇いて苦しい。だが思い切り動いた後の怠惰感は一先ず宵の頭を落ち着かせた。
「相変わらず遅ぇな」
ガーダは頭だけを宵へと向けて笑った。神殿に響き渡る屈託無い笑い声に宵も思わず口角を緩めた。それを見たガーダは満面に笑み崩すと上半身を持ち上げた。
「教えてやるから今度は忘れんなよ?」
宵もガーダへ顔を向けた。それを確認してからガーダは己を指差して、
「俺はガーダ。で、さっきのがアルス。お前と俺とアルスは幼馴染で、小さい頃から彼処で一緒に暮らしてんだ」
頷くガーダに釣られて宵も頷いた。
「俺は鍛冶やってて、アルスは月の巫女。お前は “ 黒き者 ” なんだよ」
宵は首を傾げた。知らぬ呼び名が己に付いている事に気付いた。“ ああっと… ” とガーダは暫く考えてから、
「鍛治ってのは鉄とか銅って鉱物で剣とか鎧とか鍋とか造る仕事って事で、月の巫女ってのはこの神殿で月の神に祈りを捧げる役目柄なんだよ」
「いや、その後の…“ 黒き者 ” と言うのは?」
「平たく言やぁ、月の神のおまけみたいなもん」
平た過ぎて眉間を寄せた宵にガーダは笑った。
「だってそうだろ、お前いっつもアルスが祈り捧げてる時に祭壇に胡座掻いて座ってるだけじゃねぇか」
宵は更に眉間を深めた。仔細は分からぬが、さも面白そうに笑う青年の様子は明らかに宵を皮肉っていた。白けた眼を向ける宵に気付いてガーダは慌てて咳払いをした。
「えっとだな、黒き者ってのは月の神に民の声を届ける為の依り代みたいなもんだ。ほら、」
言いながらガーダは宵を指差した。宵は困惑に、また首を捻った。
「俺が何だ?」
「お前って言うより、お前の色」
「色?」
「そ、お前黒だろ?髪も目もさ」
「それが何だ?」
「特別なんだよ、“ 黒 ” は」
捻った首をそのままに眉間を寄せた宵に紅蓮の双眼が真っ直ぐと向いた。
「この世界で “ 黒 ” はたった一人、お前だけなんだ」
その言葉に冷たい風が吹いた気がした。宵の黒眼を見つめる紅蓮の眼の奥に違和感が揺れる。それに気付いたのは、宵が他者の眼に心意を視て生きて来たからなのかもしれない。
だが、ガーダは何も気付かぬまま青空を見上げた。
そんな青年を横目で盗み見ながら、宵は湧き上がった違和感の正体に思考を巡らせる。ほんの些細な違和感だったが、だが確かに良く知る感情だった筈、と、その正体が喉元まで出掛かった時、
「本当はもう一人、月の神が最たる黒だったんだけなど…帰っちまってるからよ」
ふとガーダが呟いた。それに思考から呼び戻された宵は、慌てて同じく空を仰いだ。青年の視線の先は空、と言う事は “ その神 ” は天に帰っているという事であろう。
しかしどうやって見果てぬ天空に戻ったという神に声を届けるのか、どうやって依り代になるのかが今ひとつ分からぬと宵の顔に出ていたのかもしれない。ガーダは溜息混じりに、
「ああ、あんま難しく考える事じゃねぇって、もうすぐ月の神も帰ってくる事だし」
「帰ってくる?なんの為に?」
間髪入れずに宵は首を捻る。一瞬、ガーダは目を丸くしたが、しかし直様高々と笑い声を上げた。
「そりゃ、俺達 “ 月の民 ” を守る為に決まってんだろ」
「守る?どうして?」
また首を捻る宵に、ガーダは持て余すように頭を掻いて “ あー!面倒くせぇ! ” と立ち上がるや、
「お前ほんっとに何も覚えてねぇんだな~!よし!じゃあ明日、物知り爺さんに会わせてやるから一から教えて貰え!」
丸投げ気味に話を切ったガーダに、宵は唖然としながら “ あ、ああ ” とだけ返した。それにガーダは “ よし ” と頷いて、
「じゃ、行くか」
と、手を差し出した。何度目になるのか、宵はまた首を捻りながらも手を掴んで立ち上がる。それを確認してからガーダは歩き出した。今度は元来た道とは真逆にである。
最初に訳も分からず駆け登って来た時には気付かなかったが、どうやら神殿への道はかなりの急斜面になっているらしく、ガーダは至極慎重に足元を確認しながら下り坂を進んで行く。それでも後ろから覚束ぬ足取りで紅蓮の背中に続く宵に比べれば遥かに軽快な足取りだった。