張り裂けんばかりの悲鳴を上げて目を覚ました宵の眼に、薄暗い天井が飛び込んできた。
頭上の横長の木窓から光が帯状に差し込んでいた。宵は肩で息をしながら部屋の中を見渡した。黴臭く埃の溜まったベッド、固く閉ざされた錆びた鉄扉。あの部屋だ。またあの部屋に居る。
(…夢?)
宵は今だ痛みが脈打つ左手に顏を歪めた。気味が悪い夢だったと思った。“ はっ ” として、宵は頭を振った。違う、夢が此方で彼方が現実ではなかったかと思考の過ちに気付いた。
だが、現実で見た幾多の顏の合わさった看護婦の顏が瞼に焼き付いていた。その顏は全て宵の家族の顏だった。血の気が失せた表情は生きてはいなく恨みの眼で宵を見ていた。朧気になっている記憶の中での亡くなった父と兄と入院している筈の母と次男の能面のような顏だった。現実であったのだろうか。宵の脳裏に疑問が湧き出た。考えてみれば先程まで辿った日常も宵には覚えがあった。母の見舞いに行く為に買った霞草とアザレアの花束も、妹の雛と交わした全ての会話も宵が既に一度送った一日であった。
(夢の中で夢を見たのか)
己の疑問に無理やり答えを出して痛む左手を庇いながらベッドから起き上がった宵は気付いた。左手は痛むままだが腹部に痛みは無い。内臓が破裂した筈なのに何ともない。やはり夢であるからだと宵は思った。
だが夢であるのに痛みで目を覚まさない事にも気付いた。このままではいつか夢で痛みに気が狂ったまま死ぬか目を覚ませなくなってしまうのではないかと漠然とした不安が込み上げた。
(逃げなくては)
宵の危機感が警鐘を鳴らした。部屋の中を見回して直ぐに壁の窪みに目を止めた。其処に布団を持ち上げかけて宵は止まった。夢の夢で失敗した事を思い出した。この手は失敗すると直感して宵は再び部屋を見渡しベッドに目を止めた。宵は動く右手で今しがた己が寝ていたベットを光を落とす壁際まで何とか引きづると、屈んだ肩を床とベットの隙間に捩じ込むように入れて足を伸ばした。異常に重たいベットに宵は歯を食いしばる。
僅かに床から浮くものの、その重さにまた床へと落としそうになりながらも二度、三度と抑揚を付けながら息も絶え絶えに押し上げた。微かな音を出して壁へと横立ったベットに、直様、宵は倒してしまわぬよう注意を払いながら右手で無理矢理身体を引っ張り、強引に足を掛けて登った。
上を見ると、天井際の横窓に悠に手が届く距離だ。宵は同じく右手を木窓へ掛けると、肩など外れれば外れろと言わんばかりに強引に身体を上へ引き上げた。木窓からずり落ちそうになった右手を直様右腕に代え、次いで胸骨に代え、身体の側面を乗せたかと思うや、そのまま外へと滑り落ちた。
“ どさり ” と音が響いた。
急な衝撃に一瞬息を止めた宵は、しかし直様咳込みそうになった己の口を塞いだ。
「今何か聞こえなかった?」
僅かに離れた家の中から少女の声が聞こえた。宵の心臓が早くなる。気付かれてしまっただろうか、いや大丈夫、だが不味いと宵の頭の中は目まぐるしく思考が駆け巡った。
「俺は何も聞こえなかったけど」
少し遅れてガーダの声が答えた。
救いに船だと、それに宵は耳を澄ましながら静かに立ち上がると足音を立てぬように身を潜めながら家の後ろの茂みへと近付いた。徐に椅子の倒れる音が響いた。宵は動きを止めた。
「そんな筈無いと思うけど」
慌ただしく廊下を歩き出したアルスの足音が聞こえた。その足音は宵が閉じ込められた部屋へと近付いて来る。
「お、おい!?どうしたんだよアルス!」
その後を直様追いかけて来る足音。気付かれた。宵は直感して音が鳴るのも構わず茂みに飛び込むと、何処に続くかも分からぬ森の中を走り出した。
「逃げたわ!!!」
遠く後ろで少女が叫んだ。宵は走った。剥き出た木の根に転びそうになりながらも必死に。只々遠くもっと遠く少女に少女達に見つからぬ場所へ辿り着く為に。どのぐらい走っただろうか、もはや心臓が破裂すると宵が感じた時、突然森が切れたのだ。
一気に浴びた日の光の眩しさに宵は思わず足を止めた。その先で深く下へと石の転がる音が響いた。それに足元を見ると道の先が無い。一歩先には切り立った崖が下に深い闇を佇ませていたのだ。思わず後退った宵の後ろから大勢の叫び声が聞こえた。
それに弾かれたように宵は左へと再び走り出した。宵の唇は呼吸のし過ぎで乾き切り皮だち始める。額からは脂汗が滲み、足が地面を蹴る度零れ落ちた。叫び声は背中を追って来ていた。飛び出た木の根で宵は思わず前のめりに倒れ込んだ。顔を激しく打ち付けながらも、再び立ち上がるとまた走り出す。
声は直ぐ背後まで迫っていたのだ。走らなければ、逃げ切らなければという宵の危機感がもはや動かぬ程使い過ぎた足を尚も動かした。
やがて、宵は再び森を抜けた。
其処には市場が広がっていた。張り裂けそうな呼吸を整えながら、宵は呆然と行き交う人々を見た。止まりそうな呼吸を宥めようと壊れた管から風が漏れるような音を出しながら息を吸っている宵を、人々は “ ちらり ” と一瞥するだけで捕まえようとする様子は無い。どういう事だと宵が考えるより先に、背中に叫び声が聞こえた。
「市場だ!市場に逃げ込まれた!」
宵は身体を震わせるや、直様人混みの中へ紛れた。その耳に、
「しまった…下手に此処で騒ぐと…」
と悔しそうに吐き捨てる声が聞こえた。逃げ切れる。宵は確信した。ついていたのかもしれない。理由は分からぬが此処には追ってこれないようだ。人混みを縫うように宵は走った。このまま遠くへ逃げ切れば助かると宵の胸に僅かな光が見えた時、突然真横から右腕を捕まえられたのである。
弾かれたように蒼ざめた顔を其方へ向けた宵に構う事無く、捕まえた主は市場に並立された出店脇の暗がりへと宵を引き込んだ。その手を振り払って逃げ出そうとした宵の腕を捕まえた主は逃がすまいと強く掴み直した。
「こっちだ」
言いながら、そのまま捕まえた主は宵を引っ張りながら市場から遠ざかるように暗がりを走り出した。宵は唖然と己を引っ張り走る背中を見た。捕まえようとしているのではなく、思いの外、逃がしてくれようとしている様子を感じ取ったのであろう。何故かは分からぬが助けて貰えるならば理由など必要ない。宵の頭は混乱していた。何者かに引かれるまま宵は一気に暗がりを出た。
その目に飛び込んで来た集落には、神殿で見たような衣服を見に纏った人々が此方を一斉に向いて集まっていた。反射的に足を止めようとした宵の手が前へ放り投げられた。宵は人々の足元へと地面に顔を擦り付けるように倒れ込む。
突然の事に呻く宵。
直様上げようとした頭を踏み付けられて、宵は地面に顔を打ち付けた。
「助けて貰えるとでも思ったかよ?」
吐き捨てられた声は、此処まで宵を引き連れて来た何者かの声であったと同時に夢の夢で宵の内臓を蹴り潰した者の声だった。宵は踏まれた頭を僅かに動かして声の主を見上げた。目に刺さる逆光の中、見えたのは不気味な仮面。その仮面の隙間から覗く赤眼と目が合った瞬間、徐に頭から足を退かされたと思うや横腹を蹴り上げられた。あまりの勢いに僅かに宙に浮いて再び地面へ転がり落ちながら、宵は声に成らない呻きを上げて嗚咽する。その口から込み上げて地面へ撒き散らしたものは血だ。内臓が破裂したのであろう。
血を撒き散らしながら腹部を抑えてのたうち回る宵に人々は愉快そうに笑い声を張り上げた。
「逃げ出そうたぁ、不貞ぇ野郎だ!」
「ざまあみろ!」
「みっともねぇな!いい気味だぜ!」
「二度と逃げ出せねぇようにしてやる!」
「お前が俺達に与えた苦しみは、まだまだこんなもんじゃねぇからな!」
響く笑い声の中、人々は “ ぐるり ” と呻き続ける宵を囲むと躊躇無く蹴り飛ばし始めた。宵の身体中から上がる鈍い音に、歓喜する人々。青年の意識は痛みを痛みと感じられぬ程朦朧としていく。不気味な仮面は既に白くなり始めた虚ろな宵の双眼を頭を鷲掴んで覗き込んだ。
「俺は “ 黒 ” が大嫌いなんだよ」
吐き捨てられた言葉と深い憎悪に満ちた赤眼に、騙されたと思うより先に宵の口から漏れたのは、
「…長い悪夢だ」
仮面が高々と笑った。
「悪夢?夢だと思ってやがんのか?」
さも面白そうに笑い続ける声を耳にしながら、宵は意識を手放した。