「ど、何処に行くんだ?」
危うく出張った石に躓きそうになりながら、目の前を進む背中に宵が問いかけた。紅蓮の眼が振り返る。
「魚。夕飯釣ってこうぜ!」
水場か、と宵は小さく納得した。中世らしき夢の世界とは言え、魚がいるとはやはり現実と接点がないとは言えない。“ まあ、俺の夢なんだから当たり前か ” と、また前に向き直って足を進めるガーダに気付かれぬよう、宵はほくそ笑んだ。
幾らか歩いて、やがて両脇に木々が立ち並ぶ森を抜けると拓けた場所に出た。小さな小川が流れる先に、何やら集落が見える。
「俺の仕事場がある集落だよ」
それに宵が振り向くと、ガーダは満面の笑顔で、
「今度連れてってやるよ」
と、誇らし気に鼻の下を掻いた。仕事、そう言えばこの紅蓮の青年は鍛治をしていると言っていたな、と宵は先程の話を思い出した。改めて見た青年は年の頃十七、八のようである。この夢の世界ではそんな年頃の子供も既に働いているのか。加えて巫女だと云うあの少女、アルスも巫女として働いているという事であろう。
「子供なのに大変だな」
“ は? ” と素っ頓狂な声を出して振り向いたガーダに、宵は慌てて口を塞いだ。
青年は見るからに不機嫌そうに顔を顰める。子供ではないのだ。うっかり見た目で忘れていたが、先程この青年は幼馴染だという宵を357歳だと言っていたのだから。思わぬ失言に押し黙る宵にガーダは顔を近付け、
「お前、俺より13ばかり上だからって子供扱いすんなよな!300過ぎれば立派な大人だろ!ばーか!」
毒付きながらも “ ほら ” と木の枝を差し出した青年は、宵が気圧されながらも受け取った事を確認してから、次いで近場に落ちている別の枝を拾い上げる。そのまま勢い良く振りかぶると、後へ弓なりにしなった枝を一気に水面に投げ込んだ。
それを目を丸くして見守っていた宵に、ガーダは焦ったそうに水面に入れた枝を揺らす。
「なに呆としてんだよ、魚、釣れねぇだろそのままじゃ」
「あ、ああ、でも」
糸も無くばどうして魚が釣れようか。そう宵が思った目の前で、水面に潜った枝の先端が何かに弾かれて僅かに顔を出した。その先には透けた糸のような物が一本煌めいていた。水だ。確かに糸のようではあるが、良く見ると “ 糸のように細く伸ばされた水 ” である。摩訶不思議な現象を呆然と見つめる宵に気付いて、ガーダは “ ああ ” と納得した。
「これか。この枝は特別なんだよ。ラシルって木のーーーほら、この辺にわんさか生えてる木があんだろ?この木は細ければ細い程、水を引っ張る力があるのさ。」
“ 月の村の、しかも此処にしか生息しない不思議な木なんだよなぁ ” と、ガーダは首を捻った。原理も何もかも分からぬ不思議な木、それに宵は尚更 “ これ ” が夢なのだと思った。
ふいに、いいから早くやれと言わんばかりにガーダの咳払いが聞こえた。宵は慌てて枝を振りかぶり、水面へ投げ入れた。青年の時と同じ様に、僅かな間の後、弾かれたように水面に出た枝の先には水の糸が引いていた。ゆっくりとした小川の流れにのりながら、糸は右へ左へと揺れては、また静かにその身を落ち着ける。
そんな昨日までの夢とは程遠い長閑な時間に、いつの間にか “ こっくり、こっくり ” と転寝を仕掛けた宵の枝が、ふいに大きくしなった。
「お!引いてる引いて…って!おま!こら!起きろ!引いてるぞ!」
突然の怒鳴り声に瞼を開けた宵に構わず、ガーダは宵の手ごと枝を引っ張った。それに我に返った宵も慌てて枝を引く。暫くの引き合いの末、やがて大きな水音を立てて引っ張り上がったのは、これまた大きな赤黒い生き物であった。それは宙を飛びながら弧を描いて地面へ落ちた。
土の上で粋良く跳ねる生き物を見ながら、
「大物じゃねぇか!運がいいぜ!」
手放しで喜ぶガーダ。対照的に苦々しい面持ちで釣ったであろう生き物を見つめる宵。無理もあるまい。土の上で身を捩りながら跳ねている生き物は、到底魚と云うには程遠い異様な姿をしているのだから。赤黒く膨れ上がった身、余す所無く覆った水膨れ、唯一覗く顔らしき箇所に付いているのは目玉が一つ。
「………食べられるのか?」
足元の異形を指差して、宵は青年を伺い見た。ガーダは迷うでもなく、
「魚だぞ?食べれるに決まってんだろ」
言いながら、腰に挟んだ布切れを抜くや “ 魚 ” を手際良く包んでいく。“ 魚 ” 、確かに魚という名前は同じだが、目の前に現れたそれは明らかに宵の知る魚では無かった。剰え、それを食べるのだと思うと、込み上げた吐き気を堪えながらも宵は蒼ざめた。
そんな宵の肩を叩きながらガーダは笑声を上げた。
「見た目より中身だって!美味いんだぜ、これ!」
赤黒い生き物の入った包みを腰に結わえて、青年は右手に立ち雑然と広がる茂みを指差した。
「ついでにミサイでも取りながら帰るか」
言いながら軽快に歩き出した背中に、宵は相変わらず小首を捻りながらも着いて行く。小川の流音が遠ざかり、右も左も鬱蒼と緑だらけになった頃、ふと、ガーダは足を止めた。宵も倣うように同じく足を止める。
ガーダは徐に足元の小石を一つ掴み、二、三度掌で浮かせつつ勢いを付けるや、やや頭上の小高い茂みへと投げ付けた。“ ガサリ ” と葉の揺れる音に遅れて、何かが大量に落ちる音が響く。“ ぼとぼと ” と地面へ転がり落ちた物を見ると、何やら木の実のようである。大振りの緑葉が花のように数枚開いた中心に、黄色味掛かった小振りな実が付いている。
成る程、ミサイとは “ 実菜 ” と言う事か、と、宵は納得した。辺りに散らばり落ちた色彩を拾い集めるガーダを手伝うように宵も実菜なる物を掻き集める。此方は先程の魚に比べれば断然美味そうだ。
粗方拾い集めた森の幸を、これまたガーダは魚の包みを下げた反対側の腰に挟んでいた布切れにのせ、次いで宵の腕に抱え込まれた一山も合わせてから慣れた手付きで包む。それを今度は宵の背中に結わえさせてから、“ じゃ、一先ず戻るか ” と、更に茂みを掻き分けて再び進み出した。
(まるで一昔前の自給自足だな)
目の前を以前、軽快に歩く紅蓮の背中を見つめ、時折空に突き出るように伸びた木々を眺めては、宵は“ ぼんやり ” と口を開ける。長閑、まさにこの様な時間はそう表すに違いない。だが、こんな時間を過ごすと殊更胸の何処かに沸いてくる想いは、家族と、妹の事であった。
(早く目覚めないと…)
宵の気持ちは焦るばかりである。病院からの急ぎの知らせとは何であったのだろうか。妹は不安に連絡を待っているのではないだろうか。一体己がこの夢を見始めて、眠り続けて何日が経っているのであろうか。仕事を無断で欠勤している事になっているのだろうから、もしかすれば職を失っているのではなかろうか。
考えれば考える程、宵の頭の中は焦燥感で埋め尽くされていく。
だが、次に目覚めた時には、その時こそ “ この夢 ” が終わっているかもしれないし、もしかすれば長い時間の様に感じてはいれど、ほんの数時間の昼寝であるのかもしれない。宵は悪い事態へばかり向かう思考を頭を振って落ち着けた。
「おっそーい!何処まで行ってたのよ!?」
甲高い怒鳴り声が響いた。弾かれた様に顔を上げると、目の前には白い家と、その扉を全開に開けて仁王立つ藍色の少女の姿があった。いつの間に着いたのであろう。狐に摘ままれたように唖然と少女、アルスを見つめる宵をアルスも “ ちらり ” と見てから、
「もう!分かってるでしょ、ガーダ!ショウは病み上がりなんだからね!?」
と、宵の傍に立つガーダを嗜める。ガーダは “ へいへーい! ” と、さして気にも留めずに軽く手を振って応えた。その態度に尚更と頭から湯気を出さんばかりに怒るアルスを横目に、ガーダは腰に結わえた包みをこれ見よがしに手に掴み上げながら少女の傍らから家の中へと入っていく。それに夕飯の材料を取ってきたのか、とアルスは渋々納得して小言を飲み込んだ。次いで、その光景を呆然と見つめている宵に気付いたアルスは、屈託無く顔を綻ばせた。
「おかえり!夕飯までまだ時間があるからお茶にでもしよっか!」
言いながら宵の片手を握るや、アルスは宵を連れて弾むような足取りを家の中へと響かせた。引かれるまま、また少女達の家へと戻った宵の後ろで扉が閉まった。古びた木戸に手を掛けたまま、ガーダは不愉快そうに唇を尖らせる。
「ったく、相変わらずお前はショウ贔屓だよな」
「なによ?そんなことないわよ」
「ある!絶対ある!」
“ この前だって ” と恨みがましく愚痴り出すガーダに、 “ なによ! ” と身を乗り出して負けん気強く言い返すアルスの姿は、さながら痴話喧嘩のようである。
そんな何処か微笑ましい光景を目の端に、宵は背の包みを解きながら流し場へと向かう。既に俎板らしき板の上にはみ出して置かれた赤黒い魚に、一瞬、悪い生唾を呑み込んでから近くに並べられている笊のような籠へと木の実をあけた。
「ああ!いいのよショウ!今日はガーダが当番なんだから!」
ガーダの横顔を片手で押し退けながら、アルスが叫んだ。ガーダは潰された顔を無理やり少女へ向けて、
「なんでだよ!今日はショウの筈だろ!」
「ショウは病み上がりなんだから、無駄に元気なガーダがするのは当然でしょ!」
「だからなんでだよ!むしろアルスがすれば」
「女の子にさせる気!?」
「いや、むしろ女の子がするのが本来のあるべき姿じゃ」
「最っ低!」
「は、はあああ!?ちょ」
「いいから今日はガーダが当番なの!ついでにお茶も淹れる!ほら!」
「う………うん」
理不尽な成り行き。納得がいかなそうに首を捻りながらも、ガーダは渋々と宵の傍に来るや流し場の正面に据え付けてある木棚から湯呑みのような鉄の器を三つ程取り出した。
“ ほらほら、退いた退いた ” と、ガーダに押されて僅かに下がった宵は、しかしそのまま手際良いガーダの動きに感心する。流しの左隣に備え付けてある釜戸のような石塚の上に鉄製の器、鍋であろうか、それに水を汲み入れてのせると、空洞になった塚の中を覗き込むように屈み込み、側に置いてある煤けた赤黒い石を二つ両手に持って叩き合わせた。すると、なんと不思議なものであろうか。かち合った石から火花が飛び散り、石塚の中に僅かに敷かれた枯れ草へと火が着いたのだ。さながら火着け石と似ている。だが此方の方が随分と着きが良い。
そんな事を宵が思う間に、幾らも待たずに湯が沸いた。ガーダは器を出したと同じ棚から小瓶を一つ取ると、その中から乾燥した茶色い葉を数枚取り出し湯の中へと落とした。見る間に葉と同じ茶色に色付いた湯から香ばしい匂いが立ち込める。その湯を三つの器に注いだガーダは、器の一つを宵へと手渡した。
“ ほら ” と、もう一つを既にテーブルに座ったアルスの目の前に、残りの一つをその隣に置きながらガーダも腰を下ろした。それに慌てて宵も二人の向かい側へと座った。アルスとガーダは、申し合わせたように同時にゆっくりと湯呑みを口へと運ぶ。それを嚥下したのを確認してから、宵も初めて口にする茶色の液体を啜った。同じ鍋で作られた茶ではあるが、まさかと云う事もある。用心に越した事は無い。
疑心の気持ちと反して、茶湯は口に含むと甘い蜂蜜のような味がした。
「どうだった?」
ふいの問いかけに、宵は湯呑みから僅かに口を離して声の方を見た。アルスが不安気な面持ちで此方を伺っている。
どうだったとは、何か思い出したか、と云う事であろうか。宵が何を答えるべきか、どう答えるべきかを考えあぐねていると、
「何か思い出した?」
アルスが更に言葉を付け足した。真っ直ぐと心の奥を見透さんとばかりに見つめてくる藍色の瞳に、宵は思考を押さえ込んで慌てて答えた。
「い、いや、何も」
それにアルスは “ そう…” と、残念そうに呟いて俯く。暗く沈んだ様子の少女に、宵もまた何やら悪い事を言ったような気持ちになり、申し訳なさそうに俯いた。途端に重い空気に包まれた空間に、今度はガーダが慌てて笑い声を上げた。
「い、急ぎ過ぎなんだよアルスは!気長に待たねぇと!な?」
「そ、そうよね」
「そうだよ!あ、そ、そうだ、こないだルド爺さんから珍しいお菓子貰ったんだよ。折角だから皆で食おうぜ?な?」
「うん」
慌ただしく立ち上がったガーダは台所から綺麗な淡い紙の包みを持ってきて、テーブルの中央に広げた。包みに同じく淡く朧げな色の焼き菓子は、ショウが知る限り卵の白身を泡立てた菓子に良く似ていた。それにアルスとガーダが思い思いに手を伸ばすのを見て、ショウも恐る恐る手を伸ばす。毒が入っているということは、この夢ではすでになさそうだ。一口齧ると、予想通り甘い香りが口内に広がる。ああ、これは雛が好きそうだな、とショウは思った。いつの間にかこの空気に流されている事を感じながらも、ショウは遠い記憶を手繰り寄せるかのように悲しげに目を細めた。
(こんな平和な暮らしを、俺は妹にさせてやりたかった)
こんな風に騒ぎ合える普通の家族がいて、
こんな風に美味しいものを食べられて、
こんな風に何かに怯える事がない普通の暮らしをさせてやりたかった。
喉元に込み上げる嗚咽に、ショウは顔を俯かせた。何事かと心配そうにかけられた声が遠くで聴こえる。この夢は自分の理想の人生なのだろうか?理想を夢見て自分は眠っているのだろうか?夢を見ている場合ではない、早く目覚めないと。早く仕事に行かないと。雛の顔が見たい。見舞いに行かないと。再び混濁した意識を最後に、ショウはテーブルへと倒れ込んだ。口に残る甘い香りを感じながら。