「雛!」
見知らぬ少女の呼び声が響いた。
それに振り向いたのは宵の妹だった。少し離れた所で少女が二人手を振っていた。片方は黒い肩までの髪を緩く巻き毛にした眼鏡の理知的な少女で、もう片方は長い茶髪に露出の高い服を身に纏った濃い化粧の少女だった。“ あ ” と洩らして思わず手を振りかえした妹に、妹の友達であろうと宵は直ぐに分かった。
「行っておいで」
「で、でも」
「時間が空いたら電話するから」
「本当?絶対だよ、宵ちゃん」
少女ーーー雛は名残惜しそうに宵の手を握り締めてから二人の少女のもとへと離れた。宵は何度も不安気に振り返りながら手を振る妹に、我が子を見送る父親のように微笑みながら手を振り返した。
「誰?恰好いいね、彼氏?」
遠く離れた宵と名残惜しそうに手を振り合う雛を交互に見ながら、茶髪の少女が小突いた。
「ち、違うよ!前話したでしょ、私の…」
「ああ!例の素敵なお兄さんか!」
「いいなぁ、私もあんなお兄ちゃん欲しいなぁ」
眼鏡の少女が惚けた眼で遠くの宵を見た。それに雛が何かを言おうとするより先に、茶髪の少女が顔を俯けて、
「でも、大変だね。お兄さん、働き詰めなんでしょ?大丈夫なの?」
「…うん、無理はして欲しくないんだけど…私には何も出来なくて」
「勿体無いよね、色んな大学から引き手数多だったのにって、雛のお兄ちゃんの名前出したら教授達が悔しそうに言ってたよ」
眼鏡の少女が羨望の眼差しで遠くの黒いトレンチコートを見た。
「雛もだけど、雛の家族は皆頭良いからね。お兄ちゃん、高校特待生だったんでしょ?それも首席だって」
頭が良いのでは無い、貧乏だから普通に家族に頼り切る余裕など無かった為、周りが遊んでいる時も遊ばず休む時も休まず人の何倍も努力した結果であるだけなのだと雛は思った。
そして雛よりも才のあった宵が己の進学は選ばずに家族の為、雛の為に泥沼のように金を稼ぐ為だけの道を選んだ事に申し訳ない気持ちと宵自身は後悔は無かったのであろうかという思いばかりが心の底にあった。
思えば雛の記憶には物心付かぬ頃から働いていた宵の姿があった。毎朝暗いうちから新聞を配達しコンビニで働いてから学校に行き、また授業が終わると直ぐに引越会社の荷造りをして夜間のコンビニに向かい、深夜に帰ってきたかと思えば休む間も無く内職をしていた。迷う事無く高校卒業と同時に働き始めた宵は、殊更働きに働いた。その合間を縫って家に帰ってきては雛の食事を作ってくれたり、寝る間も無く衣服を繕ってくれたり学校へ提出する雑巾や体操着袋を指を傷だらけにして縫ってくれた。学校の授業参観や運動会にも欠かさず来てくれたものだ。
多感な年頃の子供が集う学校では色々な噂が飛び交い、雛は虐められる事ばかりであったが臆する事無く都度立ち向かってくれた宵のおかげで辛い事など無かった。“ 俺が守るからな ” と当たり前の事のように笑い、言葉に違わず沿ってくれた宵に雛の心は曲がる事は無かったのだ。
だが宵自身はどうであったのだろうか。
やりたい事があったのではないだろうか。行きたい所があったのではないだろうか。追いたい夢があったのではないだろうか。家族の為に、雛の為に色々なものを捨ててきたのではないかと思うと、雛は取り返しの付かない事をしたような罪悪感に胸を締め付けられるのであった。
「花束持ってるけど、誰かのお見舞い?」
遠くで歩き始めた宵の手元を眼鏡の少女が指差した。
「うん、お母さんのお見舞い。三叉帝王病院に入院してるの」
「え?お母さんが?なんで?」
「…」
「ちょ、ちょっと!」
暗く閉口した雛に気付き、茶髪の少女が慌てて眼鏡の肩を掴んだ。“ 何よ ” と驚く耳元に茶髪の少女は努めて小さな声で教えた。
「雛のお父さん、昔交通事故でなくなってね。それを追うように一番上のお兄さんも川遊びで水死、お母さんも原因不明の病気にかかって…十五年経つのよ。それから暫してからニ番目のお兄さんも心を病んじゃって入院したんだけど…あんまり堂々と聞くもんじゃないわよ」
「ええ!?雛の家族ってさっきのお兄ちゃん以外皆どうかなってるの!?うわぁ、悲惨ね!」
眼鏡が面白そうにわざと声を張り上げた。雛は今にも泣き出してしまいそうに俯いた。
「無神経よあんた!」
厚化粧が怒鳴った。そんな事など気にも留めずに眼鏡の少女は気味悪気に顔を歪めて雛の顔を覗き込んだ。
「なんか…雛の家族って何かに取り憑かれてるみたい」
弾かれたように悲しそうな目を見開いた雛に、眼鏡の少女は慌てて、
「あ、ごめんごめん。でも、なんかついてない事ばかりだなと思って」
「あんたね!」
厚化粧が眼鏡の肩を押した。眼鏡の少女は途端に不愉快そうに眉を釣り上げて茶髪を睨むと、直ぐ様雛に首を傾げて近付いた。
「だってそうでしょ?不幸が続くにも程があるわよ、雛は大丈夫なの?さっきのお兄ちゃんは?」
「わ、私は…」
「もし取り憑かれてるならさ、次は雛かお兄ちゃんの番でしょ?それともどちらかが不幸を呼んでるとかさ」
「止めなさいって言ってるでしょ!」
雛を追い込むように威圧する眼鏡の胸ぐらを厚化粧が掴み上げた。その時であった。厚化粧と雛の目の前擦れ擦れを突風が過ぎった。
電柱に衝突する巨大な音が響いた。彼方此方から悲鳴が上がった。
呆然とする厚化粧が掴んでいたのは布切れであった。先程まで眼鏡が着ていた服の胸元の布だ。同じく呆然と口を開けた雛は、煙が上がる方へと引き攣りながらも視線を向けた。巨大な四トントラックが歩道の電柱に突っ込み車体を歪めて煙りを上げていた。トラックと電柱が見る影も無く捻じ込まれたように密着した場所から流れて来る赤い液体。その下にひび割れて歪んだ眼鏡が落ちていた。
雛は腰を抜かした。声を失くして震える雛を引き攣った厚化粧が振り向いた。
「や、ヤバイよ雛…あいつの話じゃないけど…もしも本当に取り憑かれてるなら…次は、次はあんたの番なんじゃ…」
何処か空気の淀んだ街の風景に、厚化粧は震える足を無理矢理叩いて雛を立たせると、その場から一刻も早く逃げるように走り出した。蒼ざめた顔を後ろへ向けた雛の眼に、宵が向かっている病院の方角全体が酷く歪んで見えた気がした。
不気味に黒く捻れた空気が漂っていた。
宵の目前には病院があった。
外門から真っ直ぐと伸びた白煉瓦の道の先に佇む白い病院が、宵には何故か不気味に歪んで見えた。宵は母が居る病室を見上げてから、次いで兄が居るであろう精神病練を見た。
八年前、やはり突然、悲鳴を上げて暴れ出した兄は表向きは “ 総合失調症 ” とされ、今は閉鎖病棟にて鍵のかけられた部屋に居た。宵は兄の方へも月に一度は時間を見つけては見舞いに行くのだが、己の病室を異常な数の照明機器で明るく照らしたまま、ろくに眠らぬ様子であった。常に照明の灯りの中心に蹲るように膝を抱えて座っており、“ 黒に殺される ”、“ 黒が怖い ” と一日中ぶつぶつと呟いているのだ。
そんな兄が唯一反応を見せるのは面会に来た宵の顔を見た時だけだ。宵の顔を見た途端、悲鳴を上げて部屋の隅に逃げ込み言葉になっていない断末魔のような叫びを上げ続ける。まるで悪魔を見るかのように。そんな兄を目の当たりにする度、宵は己が “ 何か良くないもの ” なのではないかという言いようの無い不安に襲われた。
それでもいつかはこの負の連鎖が終わると信じればこそ、何を背負おうとも投げ出さず逃げ出さずに踏ん張ってきた。いつかは必ず家族揃って、またあの褪せた写真の頃のように笑い合える日が来ると信じて。
宵は耳脇に差されたアザレアを取ると大事そうに上着の内ポケットに仕舞い、病院玄関へと足を進めた。自動扉に近付いていくと慌ただしい中の様子が見えて来た。急患か、もしくは容体急変の患者が出たのかもしれない。扉が開くや否や宵に気付いた看護婦が慌てて駆け寄って来た。
(何かあったのだろうか)
宵も思わず駆け寄ろうと扉を跨いだ。出した足がロビーの床に着いた瞬間であった。宵の足からロビーに加速した腐敗が広がった。一瞬で有り様を変えた病院に宵は息を止めた。壁は全て黒緑の黴が蔓延り、椅子やテーブルは何年も水場に野晒しにされていたかのように腐っている。観葉植物は全て枯れ果て干からびていた。思わず後退った宵の背中が押された。宵は前のめりに腐敗したロビーへ倒れた。短く呻く左手が踏まれた。突然走った激痛に宵は顔を歪めながらも目の前に落ちた影に顔を上げた。
そこには宵の家族全員が恨むように此方をじっと見つめた青白い顔が全て張り付いた顔の看護婦が宵を覗き込んで居た。宵は悲鳴を上げた。