「出ろ」
細く月明かりの差し込む地下牢に、機械的な声が響いた。開け放たれた格子から出るや、兵士は宵の両手首ごと首元に鉄枷をかける。後ろでも、同じ音が遅れて聞こえた。ガーダだ。二人は兵士達に四方を槍で囲まれ、薄暗い階段を登ってゆく。近づいて来た月光へ踏み出した先には、円形を成した数え切れぬ程の兵士達が立ち並んでいた。その中心に据えられた祭壇を囲むように、藍色のマントに身を包んだ数十人の術師らしき者達。その内側には、同じく藍色の格式高そうなマントを羽織った中年男性が三人。その更に中心に、アルスとザインが居た。ザインは宵達を見るや舌舐めずりをして、手にした大鎌を担ぎ上げる。それを黒眼で見据えながらも、宵の背中を冷や汗が伝った。絶望的な状況。まさか、ここまで大掛かりであったとは、宵は想像だにしていなかった。止まった足取りを槍が突く。左右から首根を押されて跪くガーダの横を、宵は祭壇へと突き動かされていく。祭壇に着いたと思うや、徐に首根を抑えつけられ、膝をついた。その頭上へ、透き通るような声が落ちる。
「ようこそ、死の祭壇へ」
上げた黒眼に、月明かりで不気味に照らし出された藍色の死神が映った。死神は笑う。
「そんな半端な力で、私達と戦うつもりだった?」
宵は口を結ぶ。アルスは小さく溜息を吐いて、宵の前に膝を下ろした。
「最後ぐらい、何か言いたい事があるなら聞いてあげる」
言いながら寄せられた指先を、宵は思い切り噛み付けた。
「っ痛!」
反射的に手を引いたアルスに代わり、宵の頭上へ鎌の柄が振り落ちた。短く呻いて前のめりに倒れ込む宵に、アルスは不気味な笑みを歪めながら、
「本当にやんちゃねぇ。出来るなら、私が時間をかけて嬲り殺してやりたいところだけど、どうしてもザインが貴方の首を斬りたいって利かないの。我慢してやってね」
藍色のヒールが宵の頭を地面へと擦り付けた。呻き声に心地良さそうに笑いながら、アルスは何かを奏でるように両手を掲げる。それを合図に、外周の藍色から詠唱が始まった。さらにアルスが手を振ると、中年術師からも詠唱が上がり始める。ゆっくりと宵の周りに沸き立ち始める藍色の何か。それは"どろり"と宵の体に伸し掛かる。体を捩って抗うも、虚しく地面へ押し付けられていく宵。動くのは、かろうじて指先だけ。なんだこの藍色の悍ましいものは。宵が食いちぎった黒いものに似ている。似ているが、違う。あれには意思のようなものがあった。だが、これには何も感じられない。ただ冷たく無機質なだけ。無意識に湧き上がった黒いものが、それに反抗する。も、それさえも徐々に押さえ付けられてゆく。足りない。圧倒的に、今の自分では敵わない。頭上で、鎌が空気を裂いて振り上がる音がした。逃げられない。両手を宵へと翳したアルスが、詠唱を始める。夜空にかかる雲が、静かに月を中心に周り出す。暗雲と化した雲から雷鳴が轟き、月の光に闇が訪れてゆく。逃げられない。宵の頭の中に、今まで過ごして来た家族との数少ない思い出が、妹と笑い合えた楽しかった一刻が、走馬灯のように移ろいでゆく。死ぬ為に生まれ、周りを不幸にする為だけに生き抜いて、最後には何も残せない。
ここまで生きてきたのは何の為だった?
何の為に死物狂いで這いずってきた?
頭の中に、その言葉だけが強く木霊する。鼻先に集まり始めた漆黒が、足の形を成していた。それに吸い込まれるように降りてくる闇。闇闇闇。一つ一つの闇が漆黒に合わさり、足首を、脛を、膝を、腿を形作ってゆく。
「いよいよだ」
藍色の中年の一人が、恍惚と呟いた。ザインは、握る柄に力を籠める。藍色に押し潰されて祭壇に貼り付けられたまま、ただ宵は"それ"を見ていた。アルスの両手が、さらに天へと差し伸ばされる。その口元は歪に上がり、開いた瞳孔は狂気に満ちていた。天より降りてきた闇は腹となり、胸となり、腕となり、徐々に一人の体を作り上げていく。その光景は、決っして神の再来などではない。まるで、悪魔の誕生かと見紛う情景であった。宵は折れれば折れろと言わんばかりに、腕をついた。押し返す藍色に骨が軋む。それでも"ぎりぎり"と身を起こす宵を見て、ザインは鎌の柄を背中へと振り下ろした。が、少しふらつくも宵は倒れない。藍色の集団は詠唱を速めた。さらに重くのしかかってくる藍色。それでも宵は"ギリギリ"と、体の完成しつつある闇へと両手を伸ばし、手を合わせた。途端、二人の周囲に湧き上がった漆黒に、アルスとザインは後ずさる。その合間にも、降り注ぐ闇は待つ事無く闇の肩を、首を作り上げていく。
何の為に必死に生き抜いてきたのか、それはーーー
「運命に逆らえることを証明する為だ!」
言うと同時に、漆黒の体から宵へと闇が流れる。流れてくる闇に宵の皮膚は裂け、骨が悲鳴を上げる。それでも宵は止めない。漆黒は抗うように宵を押し返そうと両手に力を込め、また宵も闇を取り込もうと両手を押し続ける。黒と黒の鍔つり合いに、行き先を失った闇が周囲へと飛び散り出した。その闇の欠片に貫かれて、兵士が、藍色のマントが次々と倒れてゆく。張り裂ける皮膚に呻きつつも、宵は押し返されそうになる足を踏ん張り、漆黒の喉元に勢いよく噛み付いた。闇が悲鳴を上げる。と、同時に形作っていた漆黒が一つ崩れ始め、二つ崩れ始め、それを宵は逃すことなく食い千切っていく。その間にも、飛び散った闇は次々と周囲の頭を、腕を腹を貫いては潰していく。その一欠片がガーダに真っ直ぐと向かった時であった。ガーダの足元から"ぐるり"と光の柱が突き出たのだ。その光の柱に触れた途端、闇は断末魔の叫びを上げて霧散した。両隣では、そのまま踊るように飛び狂う闇に貫かれた兵士が、血飛沫をあげて崩れ落ちる。その光景に呆然と立ちすくむガーダの前に現れたのはルドイジュベルロンドであった。
其方へ僅かに視線を移した宵に、ルドイジュベルロンドが微かに頷いて見せる。その隙に飛び散りかけた闇を、宵は逃すことなく食いちぎる。片腕が内側から破裂し、歪に折れた骨が飛び出したが、構わず再び漆黒に喰らい付く。
負けるものか。
受け入れてたまるものか。
祭壇に湧き上がる闇が炎のように踊り狂う。その力に飛び散った闇は闇雲に周囲を血の海へと変えてゆく。上がる悲鳴に、逃げ惑う兵士達。必死に詠唱して我が身を守ろうとするも、藍色のマント達も次々と闇に貫かれてゆく。
「きゃあああ!」
アルスの鼻先一寸迫った闇を、ザインの大鎌が切り裂いた。と同時に後ろから迫った闇に間に合わず、左肩から先を"ごっそり"と噛みちぎられて、崩れ落ちる。その身を反射的に支えたアルスの手に、血塗れの何かを握らせて突き放した瞬間、大きく口を開けた闇に一瞬で飲み込まれた。闇の端から血飛沫を撒き散らして、夜空に舞い踊ってゆく漆黒。それにアルスの絶叫が響き渡る。