「いつまで寝ているの?」
ショウは、声と同時に頭に響いた痛みで飛び起きた。痛む左手に少女の足がめり込んでいた。
(夢?いや、現実?)
追いつかぬ思考を止めたのは、更に左手にめり込んだ少女の足であった。痛みで悲鳴を上げるショウに、少女は張り付けた笑顔を崩す。
「今日は私に付き合ってもらおうかしら」
少女は何処か楽しそうにショウの前髪を鷲掴んだ。鈍い音を出して幾らか千切れた髪の毛そのままに、首に付けられたものは動物がする首輪そのものであった。その先に繋がれた鎖を力任せに引っ張りながら、少女ーーーアルスは楽しそうに暗い部屋を跨ぎ出ていく。衰弱したショウにお構いなしに無理矢理引かれる首輪は、鎖が伸びては折れそうになる首に足を動かし、めり込んでは呻き声を上げて付いていく。薄暗い廊下を抜けた先には眩しい光が満ちていて、ショウは思わず足を止めた。が、それをまた力任せに引っ張られ、締まる首に否応無しに足が動いた。
「お散歩しましょうか」
開け放たれた扉の前には村人らしき人物達が群れを為していた。まるで汚らしい汚物をみるかのような視線に、さも醜い化け物でもみるかのような視線に視線。それにショウが気付いたか気付かぬうちに誰からともなく投げつけられる石礫。ショウは咄嗟に右手で左手を庇った。その間にも止まることは許されずに引っ張られ続ける首輪に、引きづられるように付いていくしかない。ふいに頬を引っ叩かれたショウは、思わず少女を見上げた。
「みんながおはようって。なんて言うの?」
おはようだって?この石礫が?ショウは唖然として只々アルスを見た。また反対側の頬が今度は更に強く叩かれた。口に鈍い痛みを感じて吐き出すと、奥歯が数本折れていた。これが少女の力なのか。何故自分がこんなことをされねばならぬのか、思考する間もなく髪を鷲掴まれ、乱暴に振り回される。
「なんて言うの?ねえ?」
「お、はよう、ござい、ま、す」
ショウの言葉にアルスは満足げに頷いてから、再び歩き出した。背中には変わらず投げ続けられる石礫に、ショウは時折短く呻く。通り過ぎる村人達は口々に明るい挨拶をしては、石を投げつけてくる。その一つがショウの右目に当たり、あまりの激痛に膝をついたが、それも許されない。構わず引かれる首輪に轢きづられながら、ショウは必死で少女の背中についていく。先程までの夢との落差に、ショウは唖然と目を見開いて小さな背中を見るばかりだ。どちらが夢かと思い始めている自分に、慌てて首を振った。違う、どちらも夢なのだ。ショウの現実は此処には無い。だが、夢であれ現実であれ、いつも悪い方向に何事も進む。すでにショウの精神は限界であった。
何故いつもこうなのであろうか
何故いつも何もできないままなのだろうか
何故いつも歪んだ感情の矛先を向けられるのだろうか
理不尽なことばかりで、もはや何が正しくて何が間違えなのか、すでにショウには分からなかった。ただ分かることは、もう逃げ出せないと言うことだけ。何かを憎む気力もない。夢であろうが無かろうが、只々襲いかかる理不尽に翻弄されるだけだ。
「今日は気分がいいわ。ちょっとお話聞かせてあげる」
アルスは後ろも見ずに口を開いた。まるで幼な子か飼い犬にでも喋り掛けるように。
「この世界は崇高なる月の民と、野蛮な日の民、下劣な人間から成り立っているの。貴方は見た目は月の民に寄って居るけど、それ以外は弱くて汚らしくてまるで下劣な人間そのもの。こうやって話しかけて貰えること自体、本来ならありえないのよ」
"分かってる?"と唐突に首輪を引かれ、宵は短く呻いた。
「それなのに、本来なら最も優れている種族なのに、月の神がいないからと機を狙った日の民が攻めてきているの。このままでは月の民は滅びてしまうわ。何故か分かる?月の民は月の神に守ってもらえていないからよ。まあ、私達がこの世界から追放したから仕方のない事なんだけど。だってしょうがないでしょ?数え切れない月の民が殺されたのよ、月の神ーーー黒光神に。でもその力が必要なの、今すぐにでも。ただ、そのまま呼び戻したらまた私達が危険になるわ。だから、ゆっくり下準備をしなくちゃね」
アルスは冷たい微笑を綻ばせて宵を見た。下準備とは何の事か。心身ともに弱らせた生贄が必要だという事なのか。そう考えるのが一番しっくりくる。だが、いくら考えたところで何も出来ないのが現実だ。そうであっては欲しくないと思うが、そうだとしか考えられない。考えたところで何も出来ない。宵は小さく呟いた。
「何で俺なんだ」
アルスは勢いよく振り返るや、血が流れたままの宵の右目側に張り手した。
「それは私の台詞よ!なんで人より黒いだけでこんな面倒な事しなくちゃいけないのか、貴方にその気持ちが分かる!?」
「黒い………」
「そうよ!黒よ!私は黒が大嫌いなのよ!だから貴方も大嫌い!虫唾が走るわ!」
肩を上下させながら捲し立てたアルスは、まだ何か言いたそうに唇を噛み締めると宵の頭を力任せに殴り飛ばした。顔面から叩きつけられた先で視界が歪んだ。いや、視界が離れていた。ああ、右目が出ている。宵は震える手で眼球に手を伸ばす。その先で乱暴に目玉が踏み潰された。アルスの足だ。残った視界に映ったものは、再び振り上げられた怒り任せの足だった。
「…はあ!」
意識が戻ると同時に飛び起きた宵は、定まらない指先で右目を探った。ある。確かにある。見えている。また夢?まさか。目の奥の痺れに似た鈍痛をまだ感じる。夢である筈がない。宵は頭を掻きむしった。何がどうなっているのか。何故こんな事が繰り返されるのか。分からない。分からない分からない分からない。
「おい、ショウはまだ寝てんのか?」
「昨日は夜更かししてたから、寝かせておいてあげましょう」
「ったく、しょうがねぇなぁ」
何気ない二人の会話が聴こえてくる。此方に来るつもりはないようだ。宵は古びたトレンチコートを羽織り、絡れそうになる足を轢きづって窓まで辿り着いた。音が鳴るのも構わずに体を外へ放り出す。逃げるんだ。遠くへ彼奴らがいない場所まで逃げるんだ。這いずるように立ち上がり、必死で森の中へと駆け出した。何処でもいい、逃げるんだ。逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ。本能が叫ぶ。後ろで何かを叫ぶ声が聞こえたがどうでもいい。今度こそ逃げ切るんだ。遠くへ、もっと遠くへ。ぐらりと視界が反転した。そのまま地面に叩きつけられた刹那、頭上で知らない男の声が響いた。
「何処へ行く?」
見つかった。だが関係ない、逃げ切るんだ。足に走る鋭い痛みもそのままに、宵は腕で地面を這いずる。その足に刺さった刃を抜いて、男は宵の腕に突き下ろした。痛い、だが関係ない。逃げなければ。それでも必死に這いずろうとする宵の背中を、男が踏み付けた。
「見苦しい、これが黒き者か」
吐き捨てられた言葉には侮蔑が篭っていた。宵は知らずに漏れた嗚咽を堪えた。見苦しい、醜い、みっともない、恥ずかしい。今まで幾度となく投げつけられてきた侮蔑。俺が何をした?それ程までに何をしたと言うのだ。不条理に溢れ出した涙を一瞥し、男は微かな溜息と共に剣を抜いた。
「今すぐ死にたくなければ、戻るんだ」
どうしてだ。どうしてあんなところへ戻らなければいけない。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
「立て」
嫌だ。
「死にたいのか」
死にたいわけがない。俺にはやらなければいけない現実があるんだ。死んでたまるか。一向に動かない宵に痺れを切らしたように、男は宵の後ろ髪を鷲掴み、そのまま元来た道へと轢きづっていく。血だらけの手で必死に掴んだ手を叩くが、意味がなかった。宵は声の限り叫んだ。
「俺には守らなくちゃいけない妹が、家族がいるんだ!頼む、見逃してくれ!」
その言葉に男は足を止めた。振り返った男の顔には左顔面が無かった。だが、そこに残る隻眼は射るような憎悪に満ちていた。
「私にもその家族がいた。それを奪ったのは、"おまえ"だ」
「俺じゃない!」
「"おまえ"だ」
有無を言わせぬ眼光に、宵は息が止まった。俺が?俺が何を?俺が何をした!言葉にならない声を張り上げてもがく宵を、男は再び轢きづり始める。俺が何をした!俺が何をしたというんだ!それは宵が、生まれてから今までずっと心に押し込めてきた感情であった。何故、何故何故何故何故。
「ショウ!」
叫び声と共にアルスが駆け寄って来た。後ろからはガーダもいる。男は二人の前に宵を軽々と放り投げた。
「次は殺すぞ」
憎悪籠る声に、宵は叩きつけられた体から呻き声を出した。何故?頭の中を答えの出ない疑問が逡巡する。アルスは慌てて宵の体を抱き起こして何かガーダに指示をしている。朧げな意識の中、何処からか担架のようなものが運ばれて来て乗せられた。その傍らにはアルスとガーダが寄り添う。心配そうな顔で悲痛にかけられる声が遠い。ああ、此方でも逃げられないのか、そんな絶望に、もはや何もかもがどうでもいいと思った。そのまま力なく胸元に落とした手に何かが触れた。ポケットだ。胸ポケットに何かある。視線だけ動かしてポケットの隙間を見やると、白いものがあった。花だ。花があった。アザレア、そう、これはアザレアだ。雛が自分にくれた花。花言葉はなんだったっけ。いつか雛が教えてくれた事があったが忘れてしまった。どうしてちゃんと聞いていなかったのだろう。後悔してももう遅い。もう現実に戻れない。そう現実に。
現実?
宵は小さな花を凝視した。此処にあるではないか現実が。現実のものがある。どうして今まで気付かなかったのだろう。現実で貰った物が確かにある。ならばこれも現実なのではないか。いつも意識を手放してしまうせいで何が起こっているのか分からないまま、それを夢だと繰り返し思い込まされているだけなのではないか。そっとポケットのアザレアを握りしめて、宵は静かに瞼だけを閉じた。
その瞬間、あれ程ざわめいていた声が"ぴたり"と止んだ。次いで訪れる静寂。何が起こっているのか。宵は耳を澄ました。小さな声でアルスの声が聞こえた。
「治しておくから、部屋に運んで」
不安定な振動が暫く続き、やがて静かに布団らしき場所へと降ろされた。次いで入ってきたアルスが小声で何かを囁いだ。次第に収まっていく痛みに、思わず宵は目を開けそうになった。治しておくとアルスは言った。治した?治したのか?今、傷を治したのか?どうしてなのか。この少女はまさか自分を助けてくれていたのか。宵は困惑した。何のために助けてくれているのか分からない。アルスは僅かに溜息を吐いて、宵の耳元で呟いた。
「早く壊れてね」
その酷く冷たく面倒くさそうに吐かれた言葉を最後に、扉が閉まる音が響いた。それでも宵は瞼を開けられなかった。向けられているものは憎悪と期待。助けてくれているなんて温かいものではない。毎回意識を失った自分に、呪いの言葉を囁いでいたのだ。恐ろしかった。これ程までに知らない相手に精神が壊れることを願われるている事実が。このまま何も出来ずに壊されてしまうのか。今まで必死に守って来た僅かなものまでも。
壊れてたまるものか。
宵は残された小さな白い希望を握り締めた。