薄く柔らかな月の光が、神殿とその周りを囲むように聳える森を幻想的に照らし出し、その下の坂道を転がる様に歩いて行く二つの人影を露にした。
「アルス」
夜気の冷たさに少女の声が響いた。突然の声に青年の心臓が跳ねる。
「私の名前よ」
張り付いた満面の笑顔で少女が振り向いた。
「あなたは?」
「…」
青年は重く口を閉ざしたまま沈黙するも、少女がいつまでも自分の顔を見つめてくる恐ろしさに耐えられなくなり、やがて重い口を開いた。
「…宵だ。天神宵」
「…アマガミ、ショウ………“ ショウ ”………それが貴方の名前なの?」
宵と名乗った青年の顔に己の顔を近づけて、少女は見開いた眼ごと首を傾げた。宵は間近で見せられた不気味な笑顔に身体を強張らせた。その反応に少女ーーーアルスは妙に納得し、
「そうなの。そうよね、やっぱりそうよねぇ」
張り付いた笑顔が、さも汚ならしいものを一瞥する表情へと変わると、途端にアルスは宵に興味を無くしたかのように顔を戻した。それきり、アルスは黙したまま振り返らずに夜道を歩き続ける。そのわけも分からぬ不気味な背中を、宵は捕まえられた手を引かれながら凝視した。
宵の頭は混乱していた。全てが分からぬ今の状況に、不気味に恐怖を漂わせる少女に。いつまでも続く薄気味悪い夢に。
(逃げなければ)
青年の鼓動は、ひたすら危機の警鐘を鳴らした。宵は知っているのだ、目の前を歩く少女の笑顔の意味を。この目は相手を同じ人間とは思わぬ目である事を。夢の中にまで出てくるとは、と宵が思う程に、青年にとっては良く知った淀んだ感情が込められた目であった。このまま何処かに連れて行かれてしまったら、悪夢は最悪の終わりを迎えるであろうと宵は予感していた。だが悪夢は宵の手を握り締めたまま離さない。振り払おうとする度に、手の骨を潰さんばかりに握り締めてくるのだ。それに宵が声を洩らしそうになった時だ。アルスが遠く夜の明け始めた大地に敷かれた灯りを指差した。
「あれが私の家よ」
アルスは引く手に殊更力を籠めると、急ぐように足早に灯りへと進んで行く。背に洩らした宵の短い苦痛の呻きなど草葉のざわめきとしか思っていない様子の少女に、宵は尚更不気味さを募らせた。
そして、やがて集落の前を通り過ぎると、白い一軒家に辿り着いた。一晩中待っていた誰かが居るのであろう、その窓からは中から薄っすらと淡い灯りが漏れていた。
「ただいま、ガーダ」
アルスは勢いよく扉を開けて、中へと慣れた足取りで上がって行く。
「おう、遅かったな、アルス!」
慌てて椅子から立ち上がったのは、赤い髪に碧眼の活発そうな青年である。少女が帰って来るまで余程心配して待っていたのであろう。ガーダと呼ばれた赤髪の青年は急いでアルスに駆け寄ろうとするも、ふと、その手に引かれている見知らぬ人物に気が付いた。
「…誰だ、そいつ」
赤髪の青年は、訝しむ碧眼を真っ直ぐと宵に向ける。その視線に宵も思わず青年を見た。
「…誰だよ、お前」
それは今度は、はっきりと宵に対して吐かれた。真っ直ぐと威嚇してくる赤髪の青年ガーダに、いや、この少女以外の人間に縋るように慌てて宵が口を開きかけた瞬間、
「彼はショウ。“ 神乞いの儀式 ”で私が呼んだのよ」
割って入ったのはアルスだ。アルスは何かを口走ろうとした宵の手に力を籠める。
鈍い音を出した左手に宵は顔を歪めた。それに気付いていないのだろうか、赤髪の青年ーーーガーダは少女の言葉に息を飲んで、
「かみごい…!? じゃ、じゃあ…こいつ、まさか…」
「こいつじゃなくて “ ショウ ” だって言ったでしょ?」
アルスは僅かに声を荒らげる。
「はいはい、ショウね、“ ショウ ” 。で、もしかして、こいつ…」
言いながら、ガーダは宵の足の先から頭の先まで値踏みするかの如く凝視し、
「もしかして、あの “ 黒き者 ” なのか?」
「そうよ」
「ほ、本当に?凄いじゃねぇかアルス!さすが月の巫女だぜ!絶対成功すると思ってたんだよ、俺!」
「ありがとう、ガーダ」
アルスは貼り付けた笑顔を綻ばせた。照れるガーダを少女はさして興味もなさそうに一瞥して横を通り、宵の手を引いたまま家の奥に進んで行く。それにガーダは思わず宵の肩を掴んだ。軽く掴まれた筈なのに鈍い音を出した肩に宵は顔を歪めた。
「お、おい!なんで上がり込ませるんだよ!?こいつ、“ あの黒光神 ” の片割れなんだろ!?」
「何でって………一緒に住もうと思って」
「 !? 」
面倒くさそうに振り返り淡々と言い放った少女にガーダは目を剥いた。
「駄目だ!!!」
「どうして?」
「危ないって分かってんだろ!そんなやつ此処に置いたらどうなるか…」
「心配いらないわ、彼はとても友好的なの」
突然の話に唖然とする宵の表情を見せぬように、アルスは僅かに宵を背に隠した。
「見たら分かるでしょ?私達こんなに仲良くなったのよ」
"ね"と同意を求める視線に、軋む右手。堪らず宵は首を縦に振って見せた。
「仲が良い…みたいには見えないけどな」
「そんな事ないわよ。と言うか、そんな事ガーダに関係ある?」
「あるに決まってるだろ、俺達は家族じゃねぇか」
「家族だから何?私は月の巫女、あなたはただの月無し。家族だから仕方なく一緒に住んであげてるだけなんだけど」
冷たい言葉に、ガーダは宵の肩から静かに手を離した。傷付いたように俯く青年をくだらぬ物を見るように一瞥して、アルスは再び宵の手を引いた。アルスは、先程の居間のような部屋から真っ直ぐ進んだ突き当たりを右に曲がった所で足を止めた。左側は窓も無い壁になっており、右側には古びた扉の付いた部屋があった。
「さ、入って」
言いながら開けられた扉に宵は思わず後退ったが、握られた手を放り投げるように部屋へ押し込まれた。宵は床へと転がるように倒れ込む。ぶちつけられた身体の痛みに呻く青年を確認するように一瞥してから、アルスは軽く踵を返した。そのまま古めかしい音を立てて閉められた扉に、外側から閂のような物が掛かる音が響いた。途端に薄暗くなった部屋の中、痛みに耐えながらも身体を起こした宵は逃げ場の無い場所に閉じ込められた事に気付き、慌てて部屋の中を見回した。
部屋の隅には古びたベットが一つ。そこに敷かれたシーツのような布には埃が被り何年もそのままにしてあったかのように黄ばんでいる。その奥の壁には小さな凹みがあり、床へ小さな穴が一つだけ空いている。厠替わりのものであろう。その他にある物と言えば、左側の壁の天井際に横長細く付いている木窓ぐらいだ。そこから唯一差し込む光のおかげで、もう夜が明けたと分かる。だが、その光も上から帯の様に斜に床へ落ちるのみで、それ以外の場所は薄暗いままだ。
(悪い夢だ)
宵は細い光を見上げて思った。
宵は激痛に目が覚めた。
思わず開けた眼を痛みに向けると、夢で見知らぬ少女に握り締められた左手が腫れ上がっていた。夢であった筈なのに、まるで現実に握り潰されたように痛む左手に顔を歪めながら宵は身体を起こした。いつの間に眠ってしまったのだろうか。いや、いつのまに悪夢が終わったのか、はっきりとしない意識を辿るように宵は目を上げた。薄暗い部屋に帯状に差し込む光。彼方此方に蔓延る蜘蛛の巣。ふと手に付いているものを見ると山のような埃だった。そのまま埃の先を見ると黄ばんだシーツが敷かれただけの粗末なベット、それに宵は寝ていたようだ。
(まだ夢の続きなのか)
宵は漠然と思った。だが、左手が痛みの鼓動を打つ度、夢では無いのではないかと思わされる。骨が折れているかもしれない。それも酷く粉々に。左手を庇うようにベットから立ち上がると、薄暗い部屋の中を見回しながら唯一の扉へと向かった。押しても引いても扉は動かない。
夢であったとしても、ここから逃げるべきだと宵の危機感が叫ぶ。
昨夜、少女は宵の事を “ 大切な客人 ” と言っていたが、どうであろうか。これではまるで罪人が牢に押し込められているようではないか。逃げなければこの先どのような扱いを受けるか、宵には容易に想像が出来た。己は人間として扱われていないと本能で分かっていたのだ。
宵は木窓を見上げた。高い、青年の身体二つ分の高さはあるであろうか。これでは届かぬと悟ってすぐ、次いで厠と思しき床の穴へと向かった。排尿の臭い立ち込める暗がりを覗き込むと、不快に冷たい空気が漂っている。宵は上着の内側から徐に財布を取り出し、その中から小銭を幾つか掴み穴の中の四方へ投げた。小銭は全て土壁に当たる音を立てて淀んだ溜まりに “ ぽちゃん ” と落ちた。
溜まりが外へと流れ出る場所は無いようだ。
(やはり窓からか)
再び明かりの下へと立った時、廊下に足音が響いた。宵は息を止めた。近付いて来る足音に早まる鼓動を抑えながら、宵は物音を立てぬように慌ててベッドに戻るとシーツを剥がして丸めた布団を厠の凹みへと立て掛け、それを隠すようにシーツで覆った。
外から閂を外す音が響いた。
思わず転びそうになりながらも宵は急いで扉の蝶番脇へとへばり付いた。古めかしい音を立てて扉が開き、眩しい光が部屋の中を一気に照らした。
「起きた?朝食よ、お腹減ったでしょ?」
声はアルスだ。手には粗末な木のトレーに並べられた同じく粗末な木の器が一つ乗っていた。その中に水のように薄い色彩のスープのようなものが僅かに入っていた。返事の無い部屋にアルスはベッドを見た。ベッドに人影は無い。宵の姿を探して部屋に残る暗がりを見回して厠の凹みに気付いた。
「起きてたのね」
凹みの影に向かってアルスは部屋の中に足を踏み入れた。出された足の先に宵はすかさず己の足を出した。驚く間も無く転んだアルスを見ながら宵は直様扉の影から飛び出すと開け放たれた扉から駆け出した。背中にトレーの中身が床に散らばる音が響いた。眩しい朝日で照らされた廊下を宵は転がるように走る。止まる事なく廊下の角を曲がった宵は何かに勢い良くぶつかり、跳ね返るように後ろの壁へと激突した。
短く呻きながらも直様駆け出そうとした腹部に拳が入った。宵は赤い胃液を吐いて崩れ落ちた。その腹へ再び重い拳がめり込んだ。
「何処へ行こうってんだ?」
吐き捨てられた言葉と同時に重なった人影に顔を上げようとした宵の腹にまた拳がめり込む。耳の内側で何かが破裂した音が響いた。宵は器官を逆流したものを床へと吐き散らして静かに倒れた。人影は、血溜まりに蹲るように動かなくなった青年の髪を鷲掴むと、宵が飛び出して来た部屋へと引きずって行く。
消えそうな意識の中、力の無い手で己の髪を掴む手を引き剥がそうともがく青年の身体が再び部屋の中へと投げ捨てられた。
「“ やんちゃ ” なのねぇ」
埃で汚れた服を払いながらアルスが笑った。
宵は死の痛みに途切れかけた視界を上げた。その目に冷たく張り付いた微笑が映ったのを最後に宵の意識は途切れた。