遊園地に着いたのは開園まもなくであった。
平日だと言うのに賑わう園内には楽しそうに騒ぐ家族や賑やかな恋人達、そんな中、軽い化粧をして綺麗に着飾る雛は誰よりも可愛らしかった。メリーゴーランドやコーヒーカップコースター、吊り船や幽霊屋敷に観覧車などの定番アトラクションを巡り、一息吐いたベンチで宵は買ってきたばかりのソフトクリームを雛へと差し出す。"ありがとう"と嬉しそうに受け取る姿に、宵は微笑ましげに笑顔を綻ばせた。幾らも食べないうちに、雛は遠くに見えるアトラクションを見つけて宵の腕を引っ張る。
「宵ちゃん!ジェットコースター行こう!」
「え?おっとっと」
と、溢れそうになる食べかけのアイスのバランスを取り直して、宵は雛に引かれるままその小さな背中を見つめた。ああ、なんと幸せなのだろうか。こんな幸せが死ぬまで続けばいいのに、と宵は願った。
「あのね、私、宵ちゃんが居てくれればそれで充分なんだ。お母さんとかお兄ちゃんも大切だけど、一番大切なのは宵ちゃんなの。何処かへ行ったりしないよね?」
ジェットコースターへと並ぶ列のなか、雛が呟いた。それに宵は声を詰まらせた。妹が何かを感じている。不安になっている。昔から敏感な子であった。どうにか安心やせてやりたい。
「何処へも行ったりしないよ。ずっと雛のそばにいるから」
「ほんと?絶対?」
「約束する」
その言葉に安堵の表情をした雛は、すぐさま暗く俯いた。
「最近、なんだかおかしいの。目の前で友達が亡くなったり、駅のホームで何かに引っ張られたみたいに線路へ落ちそうになったり………宵ちゃんが、宵ちゃんが酷く真っ黒になっていって、闇に溶けて見えなくなる夢ばかりみたり」
宵は愕然と妹を見た。目の前で亡くなった?引っ張られたみたいに?闇に溶けそうに黒く?頭の中で声が響いた。
"いいかい、忘れてはいけないよ"
それは夢で聞いた忠告であった。何故今思い出したのだろうか。何故、今こんなにも心臓が脈打つのだろうか。あれは夢だ。雛のことだって偶然だ。なのに何故?
「宵ちゃん」
促された瞳に、宵は暴れる思考を押し込めて雛の頭を優しく撫でた。
「大丈夫、何も心配しなくていい」
「う、うん」
何処か不安の拭いきれない妹の手を、気持ちを切り替えるように引っ張る。
「さあ、楽しもう」
二人の順番が来た。宵は係員へ切符を渡そうと、古びたトレンチコートのポケットへ手を入れた。何か硬いものがあった。隙間から覗く。そこには、錆びついた小さな短刀が入っていた。愕然と思考が止まる。
「宵ちゃん?どうしたの?」
「え?いや、なんでもない」
雛の問いに、宵は我に返るや慌てて切符を掴んだ。まさか、いや、そんな。夢だった筈。嘘だ、なんでこんな物がある?嘘だ。駆け廻る思考が、あれは夢では無かったと騒ぐ。違う、夢だ。あれはただの悪夢だ。こんな物、何の意味もない。ある筈がない。宵は首を左右へ振ると、思考を全て抑え込んだ。今は雛と楽しい思い出を作ってるんだ。嫌な事は考えるな。今はただ楽しむんだ。宵は係員に促されて座席へと腰を下ろす。ゆっくりと安全バーが落ちる。静かに発車していくジェットコースターに、宵は深呼吸した。そうだ、楽しもう、今は何もかも忘れて、ただ楽しもう。動き出したコースターは徐々に速さを増していく。なだらかな坂を下り、直様大きな坂を下って勢いよく一回転する。隣を見ると、雛は楽しそうに燥いでいた。そうだ、この笑顔がある、大丈夫、何も心配はない。そう宵が安堵した時であった。大きな坂の上で"がたん"と音を出してコースターが止まった。
「え?なに?」
"ぽかん"とする雛。周りの乗客達もみな口々に"なんだ"、"どうした"、"何があったんだ"とざわめき出した。それを他所に、静かに上がっていく安全バー。コースターは一向に止まったままだ。いよいよ不安の声が高まった時、アナウンスが響いた。
「ご乗客のお客様にお知らせ致します。機械内部に何らかの不具合が発生致しました。ですが、それより先にコースターが動く事はございませんので、係員が到着後、修理完了まで今暫くそのままでお待ちください。繰り返します、危険ですのでそのままでお待ちください」
「ふざけんな!」
「こんなところで待つとか無理よ!」
口々に上がる不安。雛も震えながら宵の腕にしがみ付く。
「こ、怖いよ宵ちゃん」
「だ、大丈夫、心配ないよ。すぐに係員がきてくれるから………」
「おい!見ろ!」
誰かが叫んだ。そちらを見た雛と宵の目には、ゆっくりゆっくりと動き出すコースターが映った。何故!?驚いて後ろを振り返ると、そこには黒い何かがコースターを押している光景があった。なんだ、あれは。あれは、あれはなんだ!?知らずに震え出した宵の手を、雛が握りしめる。握られた自分の手から伸びた黒い糸のようなもの。それを辿るとコースターを押す黒いものが。
「宵ちゃん!どうしよう!」
その声に慌てて雛を見ると、震える指先で何処かを指差している。その先には、坂の下に一回転したレールが続いていた。嘘だろ。このまま行ったら、安全バーのない俺達は皆あそこで振り落とされてしまう。上がる悲鳴。止まらぬコースター。
"周りの者達まで不幸になってしまうぞ"
頭の中に鏡の男の声が響いた。俺のせいで?俺が居るから?何故、何故何故何故。宵は愕然と瞳を揺らした。問いに答えは出ないまま、それでも無情にコースターは坂を降り始める。雛が消え入りそうな声で呟いた。
「助けて宵ちゃん」
その言葉に、宵は弾かれたように座席から飛び出した。そのまま先頭まで座席を蹴りながら飛び移り、レールに足を踏ん張るやコースターを押し始めた。無理だ、誰もがそう思った。だが、不思議な事にコースターは徐々に止まっていく。それに歓喜の声を漏らす人々。しかし、また次第にコースターは動き始める。それでも宵は、脂汗を滴らせながらも押し返すのをやめない。その目の先にはコースターを押す黒いもの。しだい次第に押し負けてゆく情景に、また乗客は悲鳴をあげる。無理だ、宵は思った。自分の力では、この黒いものに敵わない。どうすればいい、どうすれば。目に映るのは断末魔の叫びを張り上げる乗客達。死に直面して祈るように固まる雛。そして、黒いもの。その黒から伸びて自分に繫がる、黒い糸。ーーー糸。宵はポケットの短刀に眼をやる。
"断ち切るんだ"
少年の声が蘇る。そうか、これを断ち切れば、雛と乗客達は助かるのかもしれない。だがーーーこれを切ってしまったら、この世界と俺の繋がりがりはなくなってしまうという事ではないのか?この世界に二度と帰ってこれなくなってしまうのではないのか?もうこれっきり、雛に会えなくなってしまうのではないのか。戸惑う宵の手が薄くぼやけてゆく。これは。
"長くは保たないよ。迷ったとしても必ず断ち切るんだ"
記憶が言う。待ってくれ、俺は戻りたくない。このままこの世界に雛と居たいんだ。どうして。どうして俺なんだ。俺には迷う時間すらないと言うのか!宵は叫んだ。声にならない絶望を。次第に薄れゆく宵に雛が身を乗り出した。
「宵ちゃん!」
「あ、あああ………あああああ!!!」
その声に、宵はレールを蹴った。加速するコースターに構わず駆け上がる。走りながら短刀を掴み、黒いもの目掛けて糸ごと袈裟掛けに振り落とした。断末魔の悲鳴があがる。この世のものではない悍ましい苦悶。それを聞いていたのは宵だけであった。コースターは見る間に速度を落としていく。回転に向かう手前の坂で前後に揺れると、やがて静かに動かなくなった。止まった。乗客は生きている奇跡に湧いた。その中で、ただ宵だけが景色と同化するように薄れていく光景に、雛は泣き叫んだ。
「………やだ、やだやだ!宵ちゃん!なんで!なんで!?」
「………ごめんな」
「ダメだよ!どうして!?待って、まって宵ちゃん!」
座席にぶつかりながら、雛は駆け出した。その先で、もはや消えかけた宵が泣き出しそうに微笑んだ。
「幸せにな」
「宵ちゃん!」
伸ばした手は空を切った。宵の消えた空間を呆然と見つめる雛。どうして、どうしてどうして。ずっと一緒だって約束したのに、宵ちゃんが最後の私の家族だったのに。どうして、どうしてどうして!
「いやぁぁぁぁぁ!!!」
雛の悲鳴だけが、青空に木霊した。