窓からは虚な月明かりが淡く夜を知らせるように差し込み始める。
努めて静かに体を起こした宵は、ゆっくりと窓を開けた。自分が置かれている状況に似つかわしくない程柔らかな夜風が吹いてくる。今なら逃げられるのではないか、そっと窓枠に手を掛けた時であった。
「そんなに何度も死ぬような目に会いてぇのか」
掛けられた声に振り返ると、そこには扉にもたれ掛かったガーダが居た。反射的に硬直した宵にかまわず、赤眼の青年はベッドまで来るや腰を下ろした。
「おまえ馬鹿みてぇだから言っとくけどよ、次の新月まで2日、大人しくしとけば2日は生きられるんだぜ」
それは宵はあと2日しか生きられないということなのか。しかし何故それをわざわざ教えてくれるのであろう。殴りかかってくる気配もない。何故。その困惑に気付いてか、青年は無造作に頭をかいて、
「俺も月ありには小さい頃から虐げられて育ってきた。黒くねぇってだけで俺は"月無し"の下等種、アルスは"月有り"の中でも高位な月の巫女だ」
"異母兄弟ってやつよ"と苦笑してみせる。ガーダは、そのまま仰反るように遠くを見た。
「これでも、昔は仲が良かったんだぜ。お兄ちゃんお兄ちゃんってよ、いっつも俺の後にくっ付いてきて。いつからこうなっちまったのか。気付いたらアルスも"あいつ"も、あんなんなっちまってた」
口元をきつく結ぶ青年を見て、ああ何処か似ているのか俺達は、と宵は思った。ただ一つ違うことは、宵は雛とは仲が良いのだと言う事。でも宵と同じくガーダも、妹を大切に思っているのだろうことは分かった。そうでなくば妹に手を貸したりしない。それが例え間違えていようとも。
「おっと勘違いすんなよ。こんな話をしたからって、おまえを逃してやるわけじゃねぇ。大人しくしてたほうが楽に死ねるぞって事だ」
向けられた紅蓮の目には、死にゆく者に対する憐憫の色が浮かんでいた。何故?何故死なねばならないのだ。黒いから?いや、俺以外にも黒は大勢いた。何故俺なんだ?黒いからか。何が?見た目?他にも黒はいっぱいいただろう。そう言えば、ガーダは言っていた。この世界では月の神と俺だけが黒いと。アルスが言っていた。人より黒いだけでと。なんなんだ黒いって。黒い事に何があるんだ。黒いだけで俺には何もない。漫画や小説みたいな特殊な力が与えられたわけでもなければ、力まで少女にすら敵わない。誰も味方がいなければ、まともに人間として扱ってくれる者すら居ない。では何の為だ。こんな黒いだけの俺を、何の為に。よりにもよって何故俺でなければならなかったのか。叫び出しそうになる感情を必死に抑え込んだ。怒りに震える拳を一瞥してガーダは溜息を吐いた。
「まあ、おまえが大人しくいていりゃ、このまま普通の家族を演じててやるよ。2日だけだけどな」
宵は怒りと恐怖に震える声を絞り出した。
「こんなの理不尽だ」
「ああ、分かってる」
「頼む!逃してくれ!俺にも妹がいるんだ!」
「知ってるよ、半壊のレインフィードとおまえが話してたのが聴こえてきた。じゃなけりゃ逃げだそうとするおまえを止めに来たりしてねぇ」
「見逃してくれないのか」
「ダメだ、俺が黒い奴らに殺される」
「だったらおまえも逃げればいい」
「妹を置いていけるわけねぇだろ」
「………死ぬしか無いのか」
「妹の為だ」
「俺の妹はどうなる?」
その言葉にガーダは詰まった。大切なのは俺だって一緒だ。それなのに俺はいいのか。抑えられぬ怒りに震える拳を、宵は必死で握り締めた。誰かの為にならば誰かを犠牲にしても許されるのか。自分に物語があるように、また知らぬ誰かにも同じく物語がある。それを勝手に終わらせる権利が、誰かに与えられているとでもいうのか。そんな事があってたまるものか。そんな事があるとしても、従うなどなんの道理があって。暫くの沈黙。押し黙り嗚咽する宵に、ガーダは言った。
「………明日、俺の仕事場に連れてってやるよ」
「行きたくない」
「来るんだ………妹が大事なんだろ」
意味が分からない。逃してくれるのか。まさか。では何の意味があって。だが妹に会えるのなら。苦痛ばかりの世界であったが、唯一心から笑い合える妹のもとへ帰れるのなら。何にでも縋り付く。宵は小さく頷いて見せた。それに同じく僅かに頷き返して、ガーダは扉の向こうへと姿を消した。
惨めでも憐れでも構わない。縋れるものがあれば何にでも縋り付いてやる。宵はアザレアに手を添える。絶対帰るんだ。泥水を啜ってでも帰るんだ。静かに閉じた瞼の奥で、家族を俺が守り抜くんだと誓いながら。
●
目が覚めた世界は色褪せていた。
(ああ、これは夢だ)
宵は思った。何もない空間に、埃臭い古びた木造の家が一軒建っていた。建て付けの歪んだ窓から中を覗くと、父の遺影の前で喪服姿の母が泣き崩れていた。その傍らにはまだ3歳ぐらいの妹、そして剥げかかったテーブルを挟んで、一つの玩具を取り合い喧嘩をする8、9歳頃の二人の兄がいた。
(これは子供の頃の記憶だ)
突然父が他界し、母の涙の意味すら分からず俺たちは騒いでいた。待て、俺は何処にいる?俺の姿が見当たらない。ふと我に返って再び家族に視線を戻すと、母と兄達が窓際で棒立ちに此方を見ていた。驚いて数歩後ずさった宵に、三人は一斉に指をさした。
「「「おまえのせいだ」」」
言葉と同時に頭から溶け崩れていく家族達。宵は逃げ出した。何もない空間が、一歩宵が足を踏みしめるたびに赤黒く腐って落ちていく。何故、何故何故何故。俺が何をした。俺が何をした!転がりそうになりながら必死で逃げる足元に浮き上がってくる母達の顔、顔顔顔。宵は悲鳴をあげて走った。
「お兄ちゃん!」
突然、後ろから妹の声が響いた。弾かれたように振り返ると、崩れ掛けた地面に雛がしがみ付いていた。驚くのと同時に駆け出すや、今にも瓦礫から剥がれそうになっている白い手を掴む。
「助けてお兄ちゃん!」
叫ぶ雛。重い。嘘だ。なんて重さなんだ。まるで人ではないかのような重さに、宵の足が引き摺られていく。重い、しだい次第に重さが増していく。滑り落ちていく大切な手を、宵は必死で掴み続ける。徐々に零れていく手に宵は叫んだ。
「やめろ!やめてくれ!雛は、妹だけは!やめ………」
離れた手を伸ばしたまま、底の見えぬ闇に落ちていく雛。宵の絶叫が木霊する。見開かれた目から落ちた涙から、顔が一際浮き出た。懐かしい父の顔だ。その顔は能面のように無表情で、両頬から兄達が、額から母の顔が生えてきた。その顔が一斉に憎悪に歪み宵を凝視した。
「「「「オマエのセイだ」」」」
「あああああああああああ」
飛び起きた先は、朝日が差し込む昨夜の部屋であった。廊下を慌ただしく駆けてくる二つの足音に、宵は肩で息を切りながら視線を向けた。勢いよく扉を開けて入ってきたのはアルスとガーダである。
「ど、どうしたの!?何かあった!?」
心配そうに傍らに駆け寄るアルス。宵は、覚束ない動きで首を横に振った。夢だ、ただの夢だ。何でもない。きっと何でもない。そう自分を落ち着かせる宵に、ガーダは不安そうな視線を送る。
「おまえそんなんで俺の仕事手伝いに来れんのかよ」
それに動きを止めたのはアルスであった。僅かに後ろを一瞥して、
「………何?いつそんな約束したの?」
「男には男の約束があんだよ、アルスは今日は留守番な」
ガーダは何気ない調子でいう。暫くの沈黙後、不自然な程途端に膨れたような顔をしたアルスが怒った。
「ひっどーーーい!私は仲間外れなの?もうガーダとは口聞いてあげないんだから!」
「しょうがねぇだろ人手不足なんだから」
「ふーんだ」
そのままの様子で少女は"どかどか"と部屋を出ていく。それを充分に確認してから、ガーダは宵に囁いた。
「………今日しかねぇ。無理でも準備しな」
二人が出発したのは昼過ぎであった。ガーダは重そうな包みを背負い、手には柄の長い金槌を携えて、宵はと言えばガーダから寄越された二人分の昼飯の入った包みを背に結び付けていた。出掛けにアルスから"明るいうちに帰ってこないとまた半壊の男が出るわよ"と陽気に悍ましい事を言われたが、宵は努めて平静を装い頷き返した。家が見えなくなってから直ぐに、ガーダは自分の背から一枚のローブを取り出し、宵に被れと促した。
「黒は目立つ」
それだけ言うと、人目を憚るように足早に歩き出す。もしかして、まだあの少女にしかバレていない?ふとした疑問が頭をよぎったが、慌てた足取りに何も言う事が出来ないまま幾らか経った。整備もされていない獣道を抜け、山を一つ越した麓で、ガーダは足を止めた。目の前には、丘を切り崩したように木枠で作られた洞窟があった。
「此処だ」
青年は担いだ金槌を下ろした。そのまま黙々と洞窟へと入っていくガーダに倣い、宵も後を追う。所々に鉄で作られたランタンらしきものが、唯一の明かりとして置かれていた。暫く歩いて、やがて急勾配な狭い道を抜けた。その先には見事に広い製鉄所があった。鉄を流し込む者に、叩く者、彫刻を施す者などが、所狭しと働いていた。此処が青年ーーーガーダの仕事場ということか。宵は圧巻に口を開けた。それを肘で小突き、
「阿保みてぇな面してんなよ、おら、いくぞ」
と促す。慌てて後を追っていくと、いつの間にやら作業場を抜け、休憩所らしき場所まで抜けてしまい、狭い行き止まりに着いた。訳がわからないまま呆然としている宵の前で、ガーダは背からスコップのような物を取り出すと、足元の土を掘り始めた。何をしているんだろうか。唯々呆然とする宵へ、青年は軽く顎をしゃくる。
「入れ」
"は?"と宵は抜けた声を出した。入れとは?その穴に?恐る恐る覗くと、穴の中には土塗れの木戸があった。抜け道か。何処への?木戸を開けた宵の背中が躊躇なく蹴られた。土埃をあげた穴が直ぐ様閉められる。宵は慌てて体を起こして頭上の扉を叩いた。そんな、まさか。
「おい!」
叫んだ宵に応えるように開かれた扉へランタンが投げ入れられた。そしてまた扉が閉められる。かけられる土。
「騒いでねぇで進め。俺の命も預けるんだ、絶対戻ってこいよ」
その言葉を最後に静寂が訪れた。また閉じ込められたわけではなさそうだと分かり、宵は一旦安堵した。進め、進む………進む?落とされたランタンを翳すと、目の前に横穴が続いていた。これを進めということか。宵は狭い横穴へと身を屈めた。進んでやるとも。何処へ続いていてもいい。今の状況を何か一つでも変えられるのならば。出来る事なら、妹の待つ世界へ帰れるのならば。宵は止まる事なく進んだ。時々躓きながらも、休む事なく進んだ。どのぐらい進んだだろうか、やがてランタンの灯りが薄くなり始めた頃、遥か先に僅かな光が見えた。四角く切り取られたような線状の光だ。その光に手を伸ばした瞬間、伸ばした手を何かが掴んだ。驚く間もなく引き上げられた体は、宙吊りになった足をもたつかせた。視界にはまだ9つぐらいの幼い少年。薄い緑色に金色掛かった髪、大きな目は鋭く冷淡に宵を見る。少年は、まるで鼠でも捕まえたかのような汚らしそうな面持ちで吐き捨てた。
「なんでこの通路を知ってるの?」
それに何かを言おうとした宵を遮って、
「帰って、面倒事になりそうだ」
と手を離した。盛大に尻餅を付いた宵は思わず呻き声を出した。再び閉められた扉に縋り付くも微塵も動かない。どうする?こいつも俺を知っているみたいだ。どうすればいい?どうしても多分こいつに会わなくては駄目だ。宵の本能が喚いた。
「死ぬぞ!今すぐに!」
途端に口を突いた。暫くの静寂の後、嫌そうな顔を覗かせつつ扉が開いた。正解だ。やはりだ。この世界は、少なくとも後二日は俺に死なれては困るのだ。渋々差し出された手を掴むと、またもやいとも簡単に引っ張り出された。と、思うや、さも損材に穴の外へと放り投げられた。顔面を強打し宵は再び呻いた。そんな宵を汚らしそうに見つめたまま、少年は口角を上げる。
「聞いていたより、いい度胸じゃないか。この僕を脅してどうするつもりか聞かせて貰おうか」
室内に下げられた洋燈に照らされた少年の影が、不気味な形に揺らめいた。