夜の明けた街には、もう死の影は何処にも無かった。ほとんどの月在りと呼ばれていた者は昨夜の儀式で犠牲になり、ただ、街には静かな時間が流れていた。もう巫女も祭壇もない。月無しと呼ばれて虐げられてきた者達は自由であった。その街の中を、血だらけの黒い男が歩いてゆく。宵だ。宵の姿を見るや、月無しと呼ばれていた者たちは総出で歓声をあげた。運命を変える為に、数えきれぬ程の人間を殺した。ザインを殺した。アルスを殺した。それを笑顔で喜ぶ者達が、宵は怖かった。ふと、道の脇で人だかりが出来ていた。其方へ目をやると、藍色のマントを羽織った男が大木に括り付けられていた。その男に、街の人間は遠慮なく石を投げ付けている。
「よくも今まで威張り散らかしてくれたな」
「ひっ!」
「よくも俺たちを痛ぶり続けてくれたな」
「ぎゃっ!や、やめ!やめてくれ!」
「お前らは止めてくれたのか?え?」
「ひいぃぃ!痛ぃぃぃ!助けてくれぇ!」
「おい、月の神様だ!」
誰かが気付いた。宵を見るや、石を持った人間達は狂ったように歓喜の声を上げた。その中で、殊更怯える藍色のマント。宵は思った。何も変わらないのだ。虐げられてきた者が、今度は虐げてきた者を虐げる。何が悪で何が善なのか、誰かが終わらせると思い、誰もが自分が終わらせるべきだとは思わない。世界は変わらない。誰かを犠牲にした上で、更なる犠牲者を求めるだけだ。この世は変えられない事で溢れている。
俺は運命に抗えたと言えるのだろうか?
俺が生きている事で、運命に抗えると証明できるのだろうか?
「失せろ」
宵は錆びた刀を構える。それに短い悲鳴をあげて逃げ去っていく人々。再び藍色へ視線を向けると、此方からも短い悲鳴があがる。
怯えて怯えさせる堂々巡りの繰り返し。
憎み憎まれる終わりの無い憎悪の循環。
そんなものの為に生まれたわけではないのに、
そんなものの為に生きていくべきではないのに。
"ぽつりぽつり"と降り出した雨が、乾いた土を染めていく。見上げた空に太陽はない。ただ冷たい雨が、無感情に降り注ぐだけだ。宵の足は行き先無く前へ動く。ただただ前へ。ふと、足が止まる。目の前にはガーダが居た。此方に背を向けて屈んでいる。宵に気付いたのか、ガーダは背中越しに呟いた。
「白いアザレアの花言葉、知ってるか?」
小さく問われた声に、宵は立ちすくむ。冷たい雨が、地面に叩きつける音だけが響く。ガーダは苦笑して答えた。
「あなたに愛されて幸せーーー」
遅れて、押し殺すような嗚咽が聞こえた。
「こうするしかなかったって分かってる。でも、ごめんな、もう二度と戻ってこないでくれ」
言いながら、ガーダの声は震えていた。ガーダの前にあったのは墓であった。おそらくアルスとザインの。その墓前には、白い花が手向けられていた。血塗れのアザレア。雛がくれた花、ザインがアルスに託した花、アルスが最期にガーダへ渡した花。それに宵は、今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。降り頻る雨に、涙すら分からない。
なあ、雛、おまえは幸せだったのか?
俺が居て、幸せだったのか?
暗く俯いた背中は、ただただ冷たい雨が劈く森の中へと消えていった。後には、全てを嘆くような雨音だけが響いていた。