「これからどうするんだ?」
薄く洋燈に照らされた室内に、声が響いた。重厚なテーブルを挟んで、宵とガーダが居た。無くなったガーダの右手には、血の滲む布切れが巻かれている。その腕に、時折小さく呻きながらもガーダは真っ直ぐと宵を見て、
「明日には追っ手がくるだろうから、俺はもう月の村にはいれねぇ。だからって月なしのみんなにも迷惑はかけれねぇんだ。落ち着いた頃合いを見計らって、どこか遠くへ逃げるさ」
「逃げられないぞ」
「………そうだな」
重い静寂。そんな中、暗がりの奥から長い溜息が漏れた。
「あのさぁ、二度とこないでって言ったよね?」
僅かに其方へ視線を向けて、宵は言う。
「入れてくれたじゃないか」
「あれを見た後で咬み殺すぞって脅されたら、開けるしかないでしょ!なんなの、君は!?」
「協力してくれ」
「お断りだね」
「なんでだ」
「あのねぇ………」
再び長々と深い溜息を吐いて暗がりから姿を現したルドイジュベルロンドは、テーブルの椅子へと"どかっ"と腰を下ろした。
「もう筋書きも何もかも狂ったから教えるけど、君は黒光神をこの世界へ復活させる為の道具だったんだ。それがまさかその力を手にしている今、君は黒光神であるとも言える状態になってしまっている。分かる?君はとても危険な存在そのものなんだよ」
「だからなんだ」
「だから出てって」
「危害なんて加えない」
「君が加えなくても、すぐに此処へ月あり共が来るんだよ。面倒事に巻き込まれたくないんだ」
「何もかも知っておきながら、自分だけ逃げられると思うなよ」
黒眼がルドイジュベルロンドを鋭く射った。それに僅かに怯んだ少年は、しかし直様気を取り直して大袈裟に首を傾げて見せる。
「ほんっっっとうに恩知らずな奴だね。え?君が黒き力を飲み込んでいなければ、今すぐ殺してるとこなんだけど」
「感謝はしている。おまえのおかげで、俺の災いが元の世界へ流れるのを断ち切る事が出来た………でも、本当にこの方法しかなかったのか?本当に他に方法がなかったのか?おまえが俺だったら?もっと別な最善策を考えた筈だ。もう帰れるかもしれないという小さな希望まで消えたんだ」
「お門違いもいいとこだよ。手を貸してやる義理なんて元々無かったって分かってる?」
「いいや、おまえにはある筈だ。全てを知っておきながら、ただ見ていたおまえには」
"これからだ"と、宵は拳を握り締めた。これから、その言葉にガーダは息を呑む。
「………おまえ、何する気だ」
「戦うんだ」
戦う。魔法が使える数百人の月ありと、黒い力を手に入れたばかりで右も左も分からない人間である宵がたった一人で。無理だ、とガーダは思った。剰え完璧な力を手にしているならともかく、黒光神の力の片割れだけしか手にしていない。負け戦は目に見えている。それでも戦うのは何故。宵の黒眼は真っ直ぐと神殿の方角を見据えていた。
呆れたようにルドイジュベルロンドは何度目か知れない溜息を吐く。
「だから守れってことでいい?」
頷く宵を、少年は強く見返す。
「それで本当にいいの?」
答えるまでもないと圧を込めた黒眼に、少年は"ったく"とぼやきながら暗闇の奥へ消えていく。
「僕なら生かしておかないけどね」
言うと同時に、暗闇から槍が伸びた。現れたのは幾人もの甲冑を纏った兵士のような村人達。薄く洋燈の灯る部屋の隅に追いやられた宵の影が揺らめいた。
夜が開けようとしていた。
黒い輪郭をなぞるように登り始めた朝日は、次第に神殿を照らし出してゆく。それを宵は神殿の牢屋の鉄格子から見ていた。向かいの牢中の影が言う。
「おまえにとって家族ってなんだった?」
その質問に宵は前を見る。視界に映った牢の影は、次第に朝日に照らし出されていく。赤髪に赤眼のーーーガーダだ。ガーダは俯いて言う。
「俺にとっては、"それでも"守り抜きたい繋がりなんだ」
宵は否定も肯定もしなかった。
「許してくれなんて言わねぇ」
ガーダは更に首を垂れる。廊下の奥から響く足音に、宵は其方を見た。暗がりから現れたのは、藍色の髪に藍色の瞳の少女、アルスである。アルスは二人の牢の中程まで来ると、ゆっくりと宵へと張り付けた微笑を向けた。
「どう?束の間のお出掛けごっこは楽しかった?」
宵の鼻先に唇を近づけたアルスが愉快そうに目を細める。それに何も答えない宵に、アルスは小さく舌を打ってガーダに振り返った。
「なによ、これ。本当に黒き力を手に入れたの?」
「この目で見た」
「ふーん、まあ、あんたが私に嘘をつく筈ないしね」
「ザインがきた」
「私が送ったんだもの」
「俺を殺せって」
「そうよ、それが何?」
「おまえは………俺が居なくなってもいいのか?」
暫しの沈黙が流れる。それを破ったのはアルスの甲高い笑い声であった。
「居なくなって困るのは私じゃなくて、あんたでしょ?居なくなって傷付くのは私じゃなくて、あんた!それなのに何?私の意に背いて勝手に動いてくれちゃって!たまたま上手く行ったから運が良かったけど、こいつが死んでたらどうするつもりだったの?ほら、答えてみなさいよ!」
高く振り上げられた手がガーダ目掛けて振り落ちたと同時に、牢の中のガーダが床へと叩きつけられた。その背中には、薄青い何かが足をかけていた。押し付けられた床に呻きながらも、ガーダは、震える赤眼で悲しそうにアルスを見上げた。その視線に、アルスは歯を食いしばる。再び振り上げられた手に合わさり、薄青の靄は血の滲む右手首を踏みつけた。牢屋に悲鳴が木霊する。その悲鳴すらも踏み躙りながら、アルスが呟いた。
「なんなのよ、その目は………なんでそんな目で見るのよ………なんで私に怯えるのよ………」
消え入りそうな声。それにガーダが口を開くより早く、再び手が薙ぎ払われた。鉄格子に顔を打ち付けたガーダの髪の毛を鷲掴み、アルスは何度も何度も打ち付ける。
「ほら!ほら!笑いなさいよ!笑いなさいよ!」
宵は、懐の短刀を握り締める。振り払おうとした刹那、力ない左手が翳された。ガーダの手だ。その手は"やめろ"と言っていた。それでも守り抜きたい繋がり。虐げられても、嬲られても、それでも守り抜きたい繋がり。これをなんと呼ぶのだろうか。依存というにも度を越して、憎むと言うのも違うと、涙に歪む藍色の瞳を見て宵は思った。ひとしきり痛ぶり切ったのか、アルスは肩で息をしながら牢番へ指差した。
「繋いでおいて」
そう言い残し、アルスは重々しい鉄の扉の向こうへ去っていった。扉の軋む音に、頑丈そうな鍵を閉める音が響く。血だらけの体を天井から吊り下げられた手枷に繋がれながら、ガーダは込み上げた血を吐いた。
「お、俺のせいなんだ」
弱々しい声に宵はガーダを見る。ガーダは下を向いたまま、力無い笑い声を出した。
「自業自得なんだよ。俺、あいつが小さい頃、藍色の力を初めて見た時な、怖くて、怯えて逃げ出したんだ。掴まれかけた手を振り払って」
薄暗く影を落とした赤眼から、滴が落ちる。
「同じだって思おうとしたけど、ダメなんだ。怖くて、違う生き物に見えちまう。でも、それでも大切なのは絶対に変わらねぇ。絶対に」
形は違おうが、その気持ちが宵には痛い程分かった。周りに、どんなに蔑まれようが、虐げられようが、それでも守りたい繋がり。形は違おうが、妹を守りたい気持ちはガーダも宵も違わないのだ。ただ決定的に違う事が一つだけある。それは、
「おまえ、妹とは仲良いのか」
「………いいと思う」
「だよな、あんなに必死に言ってたもんな、それに」
ガーダは宵の胸元へ顎をしゃくる。その視線に、自分の胸板を探る宵。ガーダは苦笑しながら、手先の無い腕で宵の胸ポケットを指し示した。
「それ、なんだろって最初思ったんだけどよ、妹さんからのなんだろ」
宵は胸ポケットから、白いアザレアを出した。
「悪いな、おまえの服を調べるのは俺の仕事だったんだよ。花とか大事に持ってるなんて、変だろ?だからもしかしたらってな」
「これは、最後に妹が、俺の為に選んでくれた花なんだ」
大事そうに花を見つめる宵に、ガーダは悲しそうに目を細める。
「おまえの為に、か。うらやましいな。出来れば俺も、そんな関係になりたかった」
「まだ、無理だと決まったわけじゃないだろ」
「いいや、無理なんだよ。もう、生まれた時から決まってたんだ」
「生まれた時から決められていたことなんて、あきらめる理由にはならない」
「………ならないって、おまえな、誰もがおまえみたいに強いわけじゃないんだよ」
「俺だって強いわけじゃない」
「いや、十分強いよ。アルスや月在り共に、あんなに痛めつけられておきながら、それでも帰ろうと足掻く事をやめなかった。なんでだ?」
「もう妹には、家族と呼べる人間が俺しかいないんだ。いや、いなかった、か。だから俺が守らなければいけなかった。周りの悪意からも、生活面も、全て。だから一刻も早く帰って安心させてやりたかったんだ」
「もう二度と無理な話だけどな」
突然響いた声に、ガーダと宵は通路へ視線を移した。薄暗い地下牢にラ靴音が木霊する。二人の前で止まった足音は、手のランプを上に掲げて見せた。
「よお、懲りもせずに仲良しごっこか?」
歪めた笑顔に赤眼藍眼の男、ザインだ。ザインは態とらしくガーダの鉄格子を揺すって、高々と笑い声を上げる。
「どうだよ?今の気持ちは?おまえもこいつと一緒に処刑だってよ、笑えるねぇ」
"で"と、ザインは振り返り、宵の格子を勢いよく掴んだ。
「おまえは明日の朝が最後だ。この俺が、てめぇの首を刎ねていいってよ」
ザインの赤眼は、真っ直ぐと宵を射る。その双眼は、逃した獲物を捕まえた狼のように血走っていた。ザインの手が宵の胸ぐらを掴むや、格子に叩きつける。
「馬鹿な奴だぜ、大人しくしときゃあ、あと一日生きられたのによぉ?まあ、どっちみち変わんねぇか、どうせ死ぬ為に生まれてきたんだしな」
「おまえには貸しがある」
「あ?」
ふいにザインの右手を鋭い痛みが貫いた。錆びた短刀が突き刺さっている。それを宵は力任せに回し上げる。短い呻きを漏らしながら、ザインは慌てて格子から飛び退いた。
「ったく、執念深い野郎だぜ」
血の滲み出した右手を払い、一度鼻で笑ったザインは、再び勢いよく格子越しに宵の胸ぐらを掴み寄せた。
「少し黒い力を使えるようになったからって、調子に乗んじゃねぇぞ、そんな半端な力でどうにか出来るとも思うんじゃねぇ。てめぇは、明日、俺が殺してやる」
掴まれた胸ぐらを押し返され、宵は床へ倒れ込んだ。その鼻先に、白い花が落ちる。慌てて拾おうとした宵の手を革靴が踏み付けた。
「なんだ、こりゃあ」
「触るな!」
「おっと」
取り返そうとした手を避けて、これ見よがしにザインは白い花を眺めやる。
「こいつぁ、なんだ?え?おまえの大切な人からの贈り物か?」
「返せ!」
「っとっと、へぇ、そいつは面白ぇ。そんなに大事なもんなら、俺が貰っといてやるよ」
「返せーーー!」
薄暗い地下牢に笑い声が響いた。遠ざかっていく足音に、格子から千切れんばかりに伸ばされた手が下がる。再び訪れた静寂。宵は、小さな声を漏らした。
「たまに」
ガーダは静かに宵を見る。
「たまに思うんだ」
格子から手を下げたまま、宵は力なく拳を見つめた。
「妹は、幸せだったのかって」
開いた拳には何もなく、ただその手を見つめる。
「やれる事は全てやった。何よりも大切にしてきた。自分が欲しかった愛情を、出来る限りの方法で与えてきた」
"でも"と宵は拳を握り直す。
「それは本当に伝わっていたのか。もしかしたら迷惑ですらあったんじゃないかって。こんな事になった原因が俺だと知ったのなら、きっと俺を憎むんじゃないかって、頭の中に聞こえるんだ」
「………おまえ」
「全てを壊してきた俺と一緒で、妹は不幸だったんだ」
「なんで、おまえが決めるんだよ」
「いいや、そうなんだ。あいつから父親も母親も奪って、まともに平穏な日常を送らせてやることも出来なかったんだ。全部、俺のせいで」
「………おまえのせいじゃない」
「いや、俺のせいだ。俺が必死で生きたせいで、代わりに周りの人間が不幸になったんだ。必死に生きていけば、いつかはその不幸が終わると信じ込んでいたんだ。笑えるよな、全部、逆だったのに」
「………そんなこと言ったら、俺だってそうだよ。いつかはこの差別がなくなって、アルスも、ザインでさえも普通に笑い合える日が来るって、信じてた。こうなった今でも、実はまだ信じてる。これも、笑えるだろ?」
似ているのだ。形は違えど、二人にだけは分かる想いがあった。無機質な地下牢に、二つの笑い声が短く反響した。