気が付くと、洋燈の灯りが揺れていた。視界を動かすと、重厚なテーブルで一人本を読んでいる少年の姿があった。瞼を開けたまま唖然とする宵に気付くと、少年は待ちくたびれたように気怠げに本を閉じた。
「かかったねぇ。まさか、忘れてたわけじゃないよね?」
宵が唖然とした眼を少年へ向けると、"まあ、いい"と溜息を吐いて床の扉を開けた。そこへ軽く指差して、
「二度と来ないでよ」
と吐き捨てた。帰る?何処へ?もう俺は、帰る場所がなくなったのに。まさか彼処へ?冗談じゃない。あとニ日後に殺されると分かっていて誰が戻るものか。宵は掌の短刀を握り締めた。少年は改めて深い溜息を洩らした。
「恩人に切先を向けるなんて、不躾にも程がない?」
言葉と同時に宵の体が浮いた。首元には深々と何かに掴まれている跡が浮き出ている。"ぎりぎり"と締め上げられていく首に、宵は掠れた声を出した。必死に何かを斬りつけるも、手応えがない。殺される。そう思った瞬間、ふいに首が軽くなった。叩きつけられるように落下した床で、宵は再び呻いた。それすらも不快そうに一瞥しながら、少年が何度目かの溜息を吐いた。
「僕はルドイジュベルロンド。この世界で僕を知らないのは君だけだ。覚えなくていいよ。もう二度と君に会う事はないから」
冷たい言葉には慈悲のかけらも感じられない。何故だ?何故ここまでされて俺は死ななければならないんだ?嬲られ、笑われ、唯一の救いだった希望まで自分で切らされて。知らず溢れ出した嗚咽に耳が遠い。悔しい。憎い、憎い憎い憎い。全てが、世界が、自分が。混濁する思考に宵は蹲った。それに"あのさぁ"と近寄った少年は、鬱陶しそうに横腹を蹴り飛ばした。宵は壁に叩きつけられて床に転がった。
「君は今、一つだけ自分の運命を変えられたんだ。それ以上に何が欲しい?」
それ以上に?宵は痛みに震える手で再び刃を握り締める。生きたいことは"それ以上"の高望みだと言うのか。こんな運命、望んでなどいなかった。もう雛に会えない、もう俺の希望はない。それでもーーー死にたくない。宵は拳を握り締めた。理不尽だ、何故俺なんだ、何故。少年は宵を見下ろして吐き捨てる。
「見苦しいねぇ。幾ら抗っても無駄なものは無駄なんだ。潔く腹でもくくりな」
冗談じゃない。幾ら無駄でも、幾ら無力でも、諦めたら変えられる何かさえ何一つ無い。諦めてたまるものか。潔さなんてくそ喰らえだ。見苦しくて構わない、惨めで愚かしくて構わない。抗うんだ、最後まで。今死ぬその刹那まで。宵は溢れる涙をそのままに、燃えたぎる黒眼をあげた。それに少年、ルドイジュベルロンドは一瞬体を微動させる。なんて眼をするんだーーー。流れる沈黙の中、宵は立ち上がる。例えこの先の運命が決まっていようとも、それは誰かが勝手に決めたものだ。決して俺の運命じゃない。俺の運命を勝手に決めるな。俺の未来を勝手に決めるな。それは憤怒であった。勝手に決められていく不運と災い、それに翻弄され続けた宵の積もり積もった怒り。黒い双眼は恐ろしい紅さに燃えていた。少年は生唾を飲み込む。かつて見た氷のように冷たい黒眼とも違う恐ろしい眼。分からない、なんだこの眼は。なんだこの燃えるような黒さは。隠しきれない動揺に後退るルドイジュベルロンド。それを押すかのように、一歩、一歩と宵は少年へと足を出す。鬼気迫る気迫に、ルドイジュベルロンドは慌てて静止の手を出した。
「わ、わかった!」
足を止めた宵を、少年は震える目で垣間見る。射るような燃え盛る黒眼は、真っ直ぐとルドイジュベルロンドを捉えていた。少年は暫くその双眼を愕然と凝視していたが、やがて根負けしたかのように肩をすくめて見せた。
「負けたよ」
言いながら、部屋の奥へと姿を消して数分、落ち着きを取り戻した足取りで少年が戻ってきた。その手には空の薬瓶が一つ握られている。それを宵へと翳し、ルドイジュベルロンドは言う。
「何が欲しい?一つだけ、何でも君が望むものをあげるよ」
"ただし"と、ルドイジュベルロンドは鼻を鳴らした。
「不死の力、治癒の力、時間を操る力ーーー君が死なないようにする力は与えられない。君が死ななければ、この世界が壊されるからね。君が手に出来るものは他の何か一つだけ。考えな。愚かにも運命に逆らえると思っているのなら」
「考えるまでもない」
「なんだって?」
「この力を、俺に寄越せ」
「………」
「どうした?他に何か一つだけの望みだ」
少年は押し黙る。まさか、そんなものを欲しがるとは。その力が、生まれた瞬間から宵を苦しめてきたのに。まさか、その憎むべき力を欲しがるとは。ましてただの弱い人間が。ルドイジュベルロンドは、改めて問い直す。
「その力で何をする気?」
「決まっている、戦うんだ」
その言葉に甲高い笑い声を響かせて、少年は皮肉まじりに吐き捨てた。
「戦えると思ってるの?その力自体、闇のものだとしても神の力、この僕ですら受け入れる事に悩む程反発する力だ。ましてや、ただの人間の君が、受け入れられるとは思えないね。戦う以前の問題だよ。器が合わなさ過ぎる。解放した瞬間に、君の肉体は粉々、君の魂は闇に飲み込まれるだろうよ。言っただろ?今君に死なれては困るって」
「死ぬものか、死んでたまるか」
少年は大きく溜息を吐いた。
「何度も言わせないでよ。今君に死なれたら困るんだよ」
「勝手に決めるな」
「なに?」
「勝手に飲み込まれると、おまえが決めるな。俺は絶対に飲み込まれない。飲み込まれて堪るものか」
「………やってみればいい」
少年は薬瓶に片手を翳す。瓶には、みるみる何かの液体が溜まっていく。それを僅かに振ってから、ルドイジュベルロンドは宵へと差し出した。
「これは君に宿る闇の力を、君の魂に混ぜる事が出来る薬だ。やってみな、ただし君が死にそうになったら、戻すからね」
宵は躊躇なく瓶を受け取り、一気に燕下した。徐々に体から湧き上がる黒いもの。次第に痛みに痙攣していく手足に、宵はうつ伏せに床へと倒れ込んだ。熱い、体が焼けるように熱い。爪が剥がれ、指先が曲がり、足は反対側へと鈍い音を出した。過呼吸気味になる息に、それでも必死に手足を動かして抵抗する。だが、四肢までも千切れんばかりの激痛に、虚しくも意識は遠のいでいく。ダメだ、負けてはダメだ。頭を振りながら宵は叫ぶ。痛みなど幾らでも味わった。負けてたまるか。持ち直した意識で必死に抵抗する。その時、頭の中に何かが響いた。
「オマエのセイで死ンダ」
「オマエのセイで壊レタ」
「オマエの存在が憎イ」
「なんでおまえだけ生きてイルンダ」
「死ネ、早く死ネ」
「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」
家族の声だ。憎悪籠る言葉に継ぐ言葉。頭の中が割れそうなほどの叫び。宵は歯を食い縛って転げ回る。耳を押さえる指の間から血が滴った。鼓膜が破れた。残った足までもが反対側へと曲がった。あがる悲鳴。それに構わず、腕の関節までも歪に曲がっていく。そんな宵の様子を、少年は顔色も変えずに悠々と見下ろしたままだ。内臓の何かが音を出して破裂する。宵は激痛に悶えながらも床へと血を吐き散らかした。頭の中には相変わらず憎悪の声が木霊し続ける。見る間に黒いものに飲み込まれてゆく宵。黒いものから片手だけを覗かせて、宵は動かなくなり"ぴくり"ともしなくなった。死んだのか、いや、まだ息がある。微かだが、壊れた笛のように"ひゅうひゅう"と息が聞こえた。虫の息であった。
「もういい?」
さもこうなる事は分かり切っていたと言わんばかりに、ルドイジュベルロンドは黒く蠢くばかりの宵へと薬瓶を翳した。その手首を、血塗れの手が掴んだ。
「まだ、だ、まだ、お、終わって、ない」
黒いものを振り払うように姿を現した黒眼が燃え盛る。こうまでなっても、まだ続けるというのか、なんて精神力をしているんだ。少年は唖然と黒眼を見つめ返した。痛みなどに負けてたまるか。この力への憎しみは誰にも負けない。飲み込まれてたまるか。宵は言う事を聞かない腕を無理やり闇の上に放り出す。そのまま肩で押さえ込み、喰い付いた。不気味な声をあげてのたうち回る暗黒に構わず、食い千切る。上がる悍ましい不協和音に耳を塞いだのは、ルドイジュベルロンドであった。ちぎり取った闇を飲み込み、宵はその悲鳴の喉元にさらに喰らい付く。狂ったように暴れる黒いものを、赤々と燃える黒眼が睨む。どれだけ今まで俺の大切なものを奪ってきた。どれだけ今まで俺を餌にしてきた。どれだけ俺の運命を不幸に塗れさせてきた。血塗れの四肢に構わず喰い千切り続ける宵の姿に、少年は息を飲んだ。なんだ、なんだこの光景は。喰い千切っている、闇を。それは、まるで猫がライオンを食い殺すかのような情景であった。異界の人間が弱き者だと言ったのは誰だ。黒いだけの無力な弱き者だと言ったのは誰だ。この姿を見ろ、力に蹂躙されても起き上がり燃え盛り続ける、この紅き黒い者を見ろ。少年は知らずに震え始めた片手を抑え込んだ。やがて、闇は動く事をやめた。いや、動けなくなった。それを宵は次々と喰い続ける。一度込み上げる不快感に戻しそうになったものを無理やり飲み込み直してまで、喰い千切り続けた。飛び散る闇に、少年は後退る。恐ろしい光景であった。今まで見てきたどんな凄惨な情景よりも、上回って余りある。呆然と見つめるルドイジュベルロンドを他所に、宵は暗黒の最後の一片を飲み込んだ。肩で息を切りながら、静かに倒れ込む宵。その音に我に返った少年は、慌てて宵へと駆け寄った。翳された掌から伝わる温かさに、宵の体は元へと戻ってゆく。手足が動く事を確認してから、宵は徐に立ち上がる。それにルドイジュベルロンドは数歩後退った。
「本当に二度と来ないで」
僅かに首を振りながら、ルドイジュベルロンドは震えた声を出した。早くどこかへいってくれ、とその瞳が繰り返していた。宵は外へと続く扉へではなく、足元の扉へと踵を返した。降りた後ろでは、慌てて扉へ錠をかける音が微かに聞こえた。これでもう逃げ出す事も出来なくなった。でもこれでいい。宵は暗がりを燃える黒眼で睨み据えた。
(もう逃げない、例えどんな結末になろうとも、最後まで足掻くんだ)