「よお、また逃げ出しちまったかと思ったぜ」
扉を開けた先には、待ちくたびれた様子のガーダが居た。何処か戻ってくると分かっていたかのような、でもやはり安堵した面持ちで溜息を吐いた。
「もう逃げない」
短く告げられた言葉に、ガーダは改めて宵を見た。赤い………黒眼が紅く燃え盛っている。その双眼に一度息を飲んだガーダだったが、すぐさま我に返るや、
「………っと、こうしてる場合じゃねぇ、急いで帰るぞ、もうアルスが帰ってきちまう頃だ」
「俺はそんなに居たのか?」
「居たなんてもんじゃねぇ、もう外は真っ暗なんだよ」
「そ、そんなに?」
「いいから早く行くぞ。機嫌を損ねたら、どんな目に遭わされるか」
言いながら早足で歩き出したガーダに、宵も慌てて付いていく。誰も居なくなった製鉄所を過ぎて、洞窟を出た。外には月明かりに照らされた夜が広がっていた。
「半壊に遭わなきゃいいが………」
ガーダは不安そうに呟いた。昨日も夜であった。半壊のレインフィールド、夜に現れる狩人か。いや待て、どうしてガーダまで不安になっている?狙われているのは俺だけじゃないのか?思わず疑問が口を突いた。
「どうしておまえまで狙われるんだ?おまえは俺とは違う筈だ」
「ああ、違う。でもアルス達とも違うからだよ。俺は"月無し"なんだ」
鏡の景色で耳にした言葉に、宵はガーダを見た。それに"話は歩きながらだ"と、ガーダは先を急ぐ。
「俺、見た目の何処にも黒っぽいとこがないだろ。月の民はな、黒に近い色を持って生まれない者は魔力を持たない下等種の烙印が押される。これが"月無し"だ。逆にアルスや半壊のように黒に近い色を持って生まれた者は"月あり"と呼ばれる。魔力を持った上流階級様だ。その月ありは、月無しへ何をしても良い事になっている」
「そんな馬鹿な」
「俺だってそう思うよ」
"でも"とガーダは続ける。
「いつかはこの苦しみが終わると信じてる」
小さく呟かれた言葉に、宵は押し黙る。その気持ちを知っていながらも更に自分より弱い者を嬲る心境が、宵には分からなかった。人を人とも思わぬ扱い。自分達より弱い者、異質な者を生贄にしなければ成り立たない関係。自分達が狙われぬ為に他の誰かを差し出す身勝手さ。被害者のように見えるだけで、加害者でもある。そんな宵の考えを察して、ガーダは足を止めた。
「許して欲しくて話したわけじゃねぇからな」
背中越しに掛けられた言葉に、宵はガーダを見た。苦悩しているのだろうか、この青年はこの青年なりに。思わず宵が口を開きかけた時だ。
「随分と仲良くなってるみてぇだな」
後ろから声が聞こえた。目の前にいる筈の青年と同じ声が。驚いて振り返った宵の右頬に拳が減り込んだ。そのままガーダの足元に転がりながら倒れた宵に、ガーダは慌てて前へ出る。
「いきなり何しやがんだ!」
「おいおい、ご挨拶だな兄弟?」
「それはこっちの台詞だ!何しにきやがった、おまえとは縁を切った筈だろ!」
怒鳴るガーダの前には、黒いフードを頭から被った男。男はゆっくりと被りを取った。そこには赤髪の青年ーーーガーダがもう一人居た。ただ違うのは、片目が藍色に染まっている事だけだ。地面に伏したまま宵は唖然と二人を見た。そんな宵には目もくれず、もう一人のガーダは宵を庇うように立つガーダの鼻先まで歩み寄った。
「てめぇと縁が切れたって、俺は月の巫女様の護衛隊なんだって忘れてねぇか?鍛屑屋さん?」
「へ、何が護衛隊だよ、分別もつかずにアルスの言いなりになってるだけじゃねぇか」
「あ?」
青年はガーダの胸倉を掴み上げた。締まる喉元にガーダは呻く。
「その言いなりにすらなれない落ちこぼれが何言ってやがんだ?」
"まあ、いい"と、青年はガーダから手を離した。そのまま腰に差した剣を抜き、
「てめぇを殺せとさ」
と、切先を向けた。ガーダに。唖然とするガーダ。近寄ってくる刃。ガーダは、暫くの後、詰まった喉から声を絞り出した。
「………あ、アルスが、そう言ったのか?」
声は酷く震えていた。それに青年は高々と笑う。
「ざまぁねぇな!今までどんなに虐げられても大切にしてきた妹ちゃんに見捨てられるたぁ!」
ガーダは何も言わなかった。いや、言えなかった。唯々呆然と立ち尽くすガーダの首元に、刃が当てがわれた。月明かりに鈍く光る刃先。青年はさも楽しそうに口元を歪ませてガーダに詰め寄る。
「なあ?今どんな気持ちだ?え?一度の勝手な行動の為だけに、大事な妹に簡単に捨てられた気分は?ええ?」
ガーダは虚に見開いた眼を揺らす。嘘だ。幾ら上辺は変わっても、きっと変わらない本質があると信じていたからこそ今まで必死に寄り添ってきたのに。嘘だ。もう自分の知っている家族じゃなくなっていたなんて。嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ。夜空に、愉快でたまらないと言わんばかりの笑い声が響き渡った。そのまま青年は軽く片腕を回してガーダを殴り付ける。ガーダは宵の更に後ろまで地面を削りながら転がっていく。宵は慌てて起き上がり、その力を無くした体を抱え起こした。
「おい!しっかりし、ろ」
言い終わらぬうちに顎下を蹴り上げられて、近くの大木に背中を打ち付けられた。鈍い痛みに宵は呻く。それを鼻で笑いながら、青年は切先を一振り空に払い、ガーダへと近付く。無気力に投げ出された右手に刃が真っ直ぐと落ちた。澄んだ空に悲鳴が木霊する。痛みに我に返ったガーダは、貫かれた自分の右手を震わせた。
「ぐ、が………あ………」
「痛いか?痛いよな?でもまだまだ始まったばかりだぜ、お兄ちゃん?」
青年は勢いよく刃を引き抜くと、その右手を思い切り踏み付けた。夜空に響き渡る絶叫。追う笑い声。宵は軋む体を引き摺って手を伸ばす。再び足が振りあげられ、落ちた先で鈍い音を出した。何故。また振り上げられた足がガーダの右手に減り込み鈍い音が響く。何故だ。さらに振り上がった足が鈍い音をあげる。何故なんだ。どうして力が無いというだけで、ここまで虐げられなければならない。何故、力があるというだけでここまで許される。宵は力なき拳を握り締める。視界の先では、形を保てなくなり始めたガーダの手に、笑い声と共に何度も、何度も何度も何度も足を振り下ろす悪魔が居た。青年は上がる息もそのままに叫び出す。
「てめぇが、大切に、思ってるものなんざ、所詮、この程度なんだよ!いつかは、なんざ、夢みやがって!正しいのは、てめぇじゃねぇ!俺!な!ん!だ!………よ!」
最後に振り下ろされた足に、鈍い音が重なった。ゆっくりとあげられた足の下には、原型を失った右手だったものがあった。砕きおられた骨は飛び出し、踏み潰された肉は血を吐きながら痙攣している。暗転する視界。それに揺らいでいた宵の黒眼が赤く燃え上がる。青年は足に付いた血を地面で拭いながら、
「可哀想に。もう、てめぇが大好きな鉄いじりが出来なくなっちまったな。さあ、次は何処がいい?そのいけ好かねぇ目か?余計な事を喋り散らかす口か?それとも、いつまで経っても現実を見ようとしねぇお花畑の腐った脳みそかぁ!?」
ガーダの頭目掛けて振り下ろされた足が、宙に舞った。唖然とする青年とガーダ。その先に黒く燃え立つ拳を振り切った宵を見ながら、青年は地に一回、二回、三回打ち付けられて後方へと吹き飛んだ。暫しの静寂が訪れる。痛みすら忘れて宵を見上げるガーダ。あがった土煙から蹌踉めきつつ起き上がり、青年は口の中に広がる血溜まりを吐き捨てた。
「おいおいおいおい、何してんだよ………あ?てめぇは、ただの入れ物だろぉぉぉが!」
青年は怒り任せに地を蹴った。大振りの左手を掻い潜った宵の拳が鳩尾に減り込む。予想だにしていなかった一撃をまともにくらい、青年は再び地を転がった。土埃に呻く声があがる。血の混ざった胃液を滴らせつつも身を起こした青年は、よろめく足に倒れそうになりながら、定まらない指先を宵へとーーー赤き黒いものを湧き上がらせる月影へと向けた。
「た、ただの………入れ物の…は、ず」
その視界に足が映ったと思うや、横一直線に薙ぎ払われた。大木へと激突した青年の体は勢い止まらず、そのまま幹をへし折り、更に後ろの木へと叩きつけられた。大きく呻く青年。ゆっくりと近づいて来る足音。途切れる呼吸に視線を上げると、一際黒い闇を体から燃え上がらせる影があった。青年は慌てて掌を翳す。
「ま、待て!待てよ!俺はこんな話きいちゃいねぇぞ!おまえが黒い力を使え、る」
「失せろ」
鼻頭に錆びた短刀が突き付けられた。青年は言葉を飲み込む。その先には、怒りに赤々と燃え盛る黒眼。短い悲鳴を洩らして、青年は縺れる足に幾度か転がりながらも森の中へと姿を消して行った。
訪れる静寂。赤々と焔をあげる黒い背中。ガーダは見たのだ。月明かりに照らし出された、新しい黒き神の後ろ姿を。