再び目を覚ました宵の視界に入って来たのは、見知った天井であった。
宵は跳ね起きて周りを見回した。簡素な机が一つと、小さな飾り箪笥が一つ。その箪笥の上には色褪せた家族写真が額に入っている。古びた象牙色のカーテンからは太陽の光が霞んでいた。宵は今しがたまで見ていた寝覚めの悪い生々しい夢に困惑しながらも、古びた床に敷かれた布団から出ると、着替えようとして己が寝巻では無い事に気付いた。白いシャツに黒いズボン、黒いトレンチコートまで羽織っていた。
(いつ帰ってきたんだ?)
記憶には無い。宵が覚えているのは母の見舞いの為に病院の扉を潜ったところまでだ。だが確かに己で帰って来たのだろう。そうでなければ此処には居まい。久しぶりに帰ってきた己の部屋を眺めながら、やはり疲労のせいで記憶が曖昧になっているのだと宵は思った。ふと、電話の呼び鈴が響いた。机の上の携帯電話からのようだ。宵は黒い電話を耳にあてた。
『三叉帝王病院です。天神道尾様の病症の件でお伝えしたい事が御座いますのでお越しいただきたいのですが』
“ 伺います ” とだけ応えて宵は電話を切った。天神道尾は宵の母だ。十五年前から原因不明の病に倒れて入院していた。病名を聞いても医者は “ 分からない ” の一点張りで、強いて言うならば度重なる労苦が心の臓を弱めたのかもしれぬと言う事であった。縋る思いで神主や陰陽師に頼ってみたりもしたが、宵の顔を見るなり口裏を合わせたように皆 “ 帰ってくれ ” と険しい表情になるばかりで門前払いされるだけだった。
宵は額の家族写真に目をやる。そこには左から中年の男性が一人と、年の頃十二、三歳の男の子が三人、おそらく八歳頃の宵、そして生まれたばかりの赤ん坊を抱いた中年の女性が一人、皆幸せそうな笑顔で写っていた。
褪せた写真を指でなぞりながら、宵は懐かしそうに目を細めた。
この笑顔は昔の事である。今、宵の家族は母と一人の兄と妹だけだ。その母は病院に入院したきりで兄も十年前に入院したまま、一緒に居るのは妹ただ一人だった。
「宵ちゃん」
開いた襖に宵は振り向いた。そこには “ おかっぱ ” 頭の黒髪の少女が居た。二十歳ぐらいだろう、古めかしい灰色のワンピースを着て化粧らしい化粧もしていない質素な出で立ちが酷く印象的だ。
「病院行くの?私も一緒に行く」
「大丈夫たいした事じゃない。大学に行かないといけないだろ?」
「大学辞めて働く」
「こら」
「だって、私だけ普通の生活送ってなんていられないよ」
少女は滲む眼で宵の服の裾を掴んだ。宵は微笑んだ。
「大丈夫だって言っただろ?母さんの事も兄さんの事も全部俺に任せておけ。お前は何も心配せずに俺達兄弟が出来なかった普通を過ごしてくれ」
「でも…」
「大丈夫、大丈夫」
宵は思い出したように箪笥を開いて小さな紙袋を取り出すと、それを少女の手に握らせた。
「これ…」
「お前も少しは他の娘みたいに綺麗にしなくちゃな」
紙袋を開けると中には化粧品が数個入っていた。“ 安物だが ” と申し訳なさそうに笑う宵に、少女は “ ううん、ありがとう ” と溢れた涙を拭った。
本当はもっと良い服や靴、良い暮らしをさせてやりたいが甲斐性が無くてごめんなと、安物の贈り物に嬉しそうに笑う妹を見て宵は心の中で謝った。
「ね、途中まで一緒に行こう、宵ちゃん」
少女は久しぶりに会った宵を離すまいと腕にしがみ付いた。照れ臭そうに苦笑しながら頷いた宵に少女は満面の笑顔で玄関に向かった。古びた木戸を開いた外は眩しい光に満ちていた。時刻は昼頃だろうか。見るからに汚らしい年季の入った “ おんぼろ ” な家に鍵を掛けて、宵と妹は歩き出した。道路脇に立ち並ぶ家々は掃き溜めというに近い雰囲気を漂わせていた。生活基準の低い者ばかりが住む土地であった。その中でも宵達は更に下に位置した。
宵と少女が通る度に家々から覗いていた顔を隠すようにカーテンをひく音や窓を閉める音が響いた。彼方此方の家中から囁き声が聞こえた。
“ 来たぞ、天神だ ”
“ 不吉だねぇ、嫌だ嫌だ ”
“ 頭がいかれてやがるんだ、怖いったらないよ ”
“ 気味が悪い疫病神め ”
態とらしく聞こえる罵詈雑言に宵は拳を握りしめた。貧乏なうえ親の居ない宵達は殊更に陰険な者達の鬱憤晴らしの嘲笑の的であった。だが昔に比べれば随分とましになった方だ。
「宵ちゃん、次はいつ帰ってこれるの?」
ふと、目の前を幸せそうな親子が楽しげに笑い声を上げて過ぎていくのを羨ましそうに見つめながら少女が聞いた。宵は拳を緩め、途端に悲しそうに笑った。
「ごめんな、出来るだけ近い内に帰ってこれるようにするからな」
「ううん、いいの、ごめんね」
少女は辛そうな宵の顔に慌てて口を噤んだ。物心付いた頃には、少女の父と一番上の兄は亡くなっており、母ともう一人の兄は病院に居たっきりで、一人宵だけが居たのだ。父と母の代わりとしていつも世話を妬いては、寂しい思いをさせぬように辛い思いをせぬようにと少女の精神面も生活面も支えていた。
そんな少女にとって宵は、かけがえのない父であり母であり兄であった。
だが、原因不明の病にかかり入院している母と兄の入院費と生活費を稼ぐ為に、昼夜も休みも無く働く宵が帰ってくるのは仕事の合間を縫った数日に数時間のみで、それも少女の大学費をも賄うようになってからは月に一、二度あるか無いかとなっていた。
少しでも助けになればと考え、奨学金を使いながら少女も大学の空いた時間でアルバイトをしていたが、己の教材費などを賄える程度でとても足りるものではなかった。
日に日に窶れていく宵の顔を見つめながら、少女は全て投げ出して逃げ出して欲しい気持ちだった。
「宵ちゃん、花束買ってってあげよう」
少女は込み上げる鬱蒼を掻き消すように傍に見つけた花屋に駆け寄った。腕を引っ張られて宵も側に腰を屈めた。
季節は秋を過ぎて冬になるであろうか、店先に並ぶ花々は紅葉や樅に花梨を中心に薔薇やガーベラが彩りを飾っていた。その中から少女が選んだのは儚げな白いアザレアだ。少女らしいと宵は口元を緩めた。“ 宵ちゃんも ” と促されて悩んだ末、宵は質素な霞草を手に取った。
「宵ちゃんらしい」
少女は屈託無く笑い声を上げた。
妹の笑顔に宵も笑顔を綻ばせた。側に寄って来た店員に “ これを ” と頼んだ宵の前に身を出して、少女が “ 私が買います ” と急いで古めかしい財布を出した。それに手を翳した宵に少女は更に手を翳した。“ アルバイト代多めに出たんだ ” と誇らし気に笑う少女に、宵は微笑ましそうに目を細めた。
包装された花束を受け取り宵へと渡した少女は、白いアザレアを小さく手折ると宵の頭へと差して微笑んだ。
「私、頑張って早く弁護士になって、今度は私が宵ちゃんを幸せにするからね」
宵は目を瞬いた。意外であった。少女だとばかり思っていた妹がそんな事を考えていたとはと宵は頬を叩かれた気がした。
「期待しないで期待してるな」
「何それ」
宵と少女は顔を見合わせると申し合わせたように笑い声を上げた。